アレクサンダー・モギルニー Alexander Mogilny ~Alexander The Great~

Alexander Mogilny(アレクサンダー・モギルニー)
(1969-)
Hockey player
Position:Winger
Shot:Left
Height:183cm Weight:95kg

Stats

 アムール川を望むシベリアの果てのハバロフスクに生まれたモギルニーは、幼くして遠くモスクワへと連れてこられた。そのたぐいまれなホッケーの才能にCSKAモスクワが目を付けたのだ。

 当時のソ連においてアイスホッケーは娯楽ではなく国家事業であり、陸軍のクラブであるCSKAモスクワには共産圏全体から才能あるホッケー選手が集められていた。

 モギルニーはその中でも群を抜いた存在で、17歳にしてトップチームに昇格を果たし、同年はソ連代表としてジュニア世界選手権に参加。しかし、カナダ代表と乱闘騒ぎを起こして敵味方共々18か月の出場停止を食らう騒ぎを起こしている。

 流石にカナダとソ連の選手抜きでは大会にならないので半年に負けてもらい、翌年は銀メダルを獲得。翌年には代表でもトップチームに昇格してカルガリー織ピックで金メダルを獲得した。

 パペル・ブレ、セルゲイ・ヒョードロフとのラインは”アーミー・ライン”の異名で西側にも知られる存在となり、翌シーズンは世界選手権も制覇。しかし、国際大会に参加する度にモギルニーはソ連への忠誠心を失っていくのだった。

 当時のソ連は完全に死に体で、乱闘をやらかすほど血気盛んなモギルニーにとって豊かな西側はまぶしく見えた。

 そんな折、バッファロー・セイバーズが自分を全体89位で指名したというニュースがモギルニーの耳に入ったのが運命を変えた。ストックホルムで行われた1989年の世界選手権のさなか、モギルニーはアメリカ大使館に駆け込んで亡命を申請し、NHL史上初の亡命選手として歴史に名を刻んだ。

 全体89位、89年亡命にちなんで生涯のトレードマークとなる背番号”89″を背負ったモギルニーは開幕戦で開始20秒でゴールを決める鮮烈なデビューを果たすが、NHLのスタイルに今一つ適応できずルーキーシーズンは前評判の割にはパッとしない15ゴール、43ポイントという物であった。

 しかし、試合開始5秒でのゴールというNHLレコードを作るなどポテンシャルは抜群で、その後は徐々に敵美味して成績を向上させ、4年目となった1992-1993シーズンにはパット・ラフォンティーヌがチームに加入し、コンビで大ブレイクを見せた。

 テーム・セラニと並ぶリーグ最多の76ゴール、127ポイントの大暴れでオールスターに初選出。ヨーロッパ人として初の最多ゴールであった。

 いかにもシベリアから来ましたと言わんばかりの巨体とそれに似合わぬスピードが武器で、フィジカルにものを言わせてハットトリックを7回も決める爆発力を見せ、”Alexander The Great”(アレキサンダー大王)と実にスケールの大きいニックネームも頂戴し、モギルニーは名実ともに東側最高の選手であることを証明して見せた。

 しかし、セイバーズはソ連同様豊かではなかった。モギルニーは亡命選手なので安く年俸が抑えられていたが、高給取りのラフォンティーヌとドミニク・ハシェックの両看板がチーム財政を圧迫し、怪我もあって少し成績を落としていたモギルニーは1994-1995シーズン終了後にバンクーバー・カナックスへとトレードされた。

 カナックスでは”ロシアン・ロケット”として大いに鳴らしていたパペル・ブレと再会し、このコンビには大きな期待がかかったが、二人は実は相性の良い方ではなく、ブレの負傷もあって別のラインでプレーすることになった。

 これが見事にはまり、クリフ・ロニング、マーチン・ジェリナスとラインを組んだモギルニーは52ゴール、107ポイントの大活躍で四年連続のオールスターに選出。モギルニーは亡命選手という事もあって人気は高かったのだ。

 しかし、またもモギルニーは怪我に襲われ、満足にプレーできない苦しいシーズンが続き、結局1999-2000シーズン途中にニュージャージー・デビルズにトレード。身体は相変わらずであったがデビルズは強く、モギルニーは悲願のスタンレーカップを獲得。世界選手権、オリンピックは既に制覇していたので”トリプル・ゴールド・クラブ”に迎えられる栄誉を得た。

 これで景気が付いたと見え、久々に万全の状態で臨んだ翌シーズンは43ゴール、83ポイントを獲得して復活。連覇を狙うプレーオフはファイナルで敗れたものの、守備にも磨きをかけてセルケ賞にも票が入るなど、実り多いシーズンであった。

 このシーズンでFAとなり、4年2200万ドルの大型契約でトロント・メープルリーフスに移籍。ウェンデル・クラーク以来のウィンガーとして高い期待が寄せられたが、果たしでマッツ・サンディンとのヨーロッパコンビは良く機能した。

 2年目の2002-2003シーズンには79ポイントを記録し、サンディンが8年に渡って守り続けたチーム最多ポイントの座を射止め、レディー・ビング記念賞も受賞。サンディンは人格者なので、モギルニーの活躍を誰よりも喜んだという。

 しかし、モギルニーの身体はもう限界に近く、翌シーズンは通算1000ポイントを達成したがまったく活躍できず、ロックアウトで翌シーズンは休むことができたが、サラリーキャップが設定されるともはやモギルニーはトロントには居られなくなった。

 2005-2006シーズンは恩義あるデビルズに身を寄せたが、成績は上向かず、AHLに贈られる屈辱も味わい、翌シーズンはドクターストップがかかって出場が叶わず、結局これを最後に現役を退いた。

 その後は体制の変わった故郷に帰参を許され、KHLのアムール・ハバロフスクに迎えられてチーム社長に収まっている。アレキサンダー大王の遠征はまだ終わっていないのだ。

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