デービー・ジョンソン Davey Johnson ~ジョン損とは言わせない~

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Davey Johnson (デービー・ジョンソン)
(1943-)
Baseballer
Position:Second Baseman
Threw/Batted:R/R
Height:185cm Weight:77kg

Stuts

フロリダで陸軍中佐の父親の元に生まれたジョンソンは、軍人の子供の常として父親の転勤に従って各地を転々としたが、テキサスのハイスクールで野球選手として頭角を現すと当地に落ち着き、奨学金を得てテキサスA&M大へ進学。更にはその片手間にジョン・ホプキンス大やトリニティ大にも通い、数学の学位を取得したというのだから、後に名将として名をとどろかせる素地はこの頃からあったのだろう。

同大でのプレーは1年だけで1962年にボルチモア・オリオールズと契約。1965年にメジャーデビューを果たすと、翌シーズンには後に同じく日本でプレーしたジェリー・エイデアーの放出に伴ってセカンドのレギュラーを獲得。攻守に活躍を見せて新人王投票では3位に付け、チームの初の世界一に大きく貢献。ワールドシリーズではこのシリーズを持って引退したドジャースのサンディ・コーファックスから最後のヒットを放っている。

その後は毎年のようにワールドシリーズに進出するオリオールズ黄金時代の中心選手として大活躍し、1968年にはオールスターに初選出されたのを皮切りに3年連続で選出。1970年には二度目の世界一に輝いている。

1969年からはショートのマーク・べレンジャーと一緒に3年連続でゴールドグラブ賞を獲得。更にサードには人間掃除機ブルックス・ロビンソンが居た。当時のオリオールズ内野陣はまさに鉄壁であった。

しかし、1972年には肩と背中を故障して打率.221という大不調に陥り、ボビー・グリッチの台頭や契約の拗れもあってシーズン終了後にアトランタ・ブレーブスにトレードで放出されたが、ブレーブスに移籍したジョンソンは守備は不調だったもののまるで人が変わったかのように打ちまくり、打率.270ながら43HR、99打点という凄まじい成績をマーク。二塁手の43HRはロジャー・ホーンスビーが1922年に記録した42HRの記録を半世紀ぶりに塗り替える大記録であった。

その後はファーストに回ることが多くなり、1975年シーズンに1打席に立った後に、何と日本の読売ジャイアンツと契約した。ジャイアンツは純血主義を標榜して日系人以外の助っ人外人の獲得を長年拒んできたが、引退した長嶋茂雄の後釜を欲していた。何しろ格式に拘るチームなので大物選手を求め、ジョンソンに白羽の矢が立ったのだった。

ところが、長嶋の後釜なので慣れないサードを守らされた上に日本野球にジョンソンは戸惑い、成績は大きく低迷。チームも今の所唯一の最下位に沈む屈辱を味わい、ジョンソンは戦犯としてやり玉に挙げられ「ジョン損」と罵られた。

だが、翌シーズンは慣れ親しんだセカンドにコンバートされ、打率.275、20HR,74打点、更に芸術的な守備で面目を施し、ベストナインとダイヤモンドグラブ賞を獲得。これを手土産にフィラデルフィア・フィリーズと契約してメジャー復帰を果たした。

復帰後は控えに回ることが多くなり、1978年シーズン途中にシカゴ・カブスへ移籍。同年を持って現役を引退した。

引退後はマイナーで監督の修行を始め、1984年にニューヨーク・メッツの監督に就任。数学士の経歴を活かしてセイバーマトリクスをいち早く取り入れ、低迷していたメッツはたちまちのうちに実力をつけ、1986年には世界一に輝いた。ジョンソンは現在でもメッツの最多勝監督である。

だが、活躍さえしていれば選手の私生活に干渉しないという放任主義を取ったことからチームの風紀はドラッグが蔓延するなど著しく悪化し、世界一のメンバーは何かしらの前科を持つ者が非常に多い。ジョンソンは2010年にメッツの殿堂入りを果たしているが、ジョンソンの手腕は評価が分かれる。

1990年シーズン途中に解任されてメッツを去り、1993年シーズン途中にシンシナティ・レッズの監督に就任。低迷していたチームをたちまち地区優勝させたが、オーナーのマージ・ショットと対立し、1995年シーズンを持って退任。

1996年には古巣オリオールズの監督に就任したが、またしてもオーナーやロベルト・アロマーと確執を造り、地区優勝を果たしたにも関わらず1997年シーズンを持って退任。

1999年にはロサンゼルス・ドジャースの監督に就任したものの、これまた実績は残しながら2年で退任。以後はアテネ五輪でオランダ代表の監督を務めたのを機にナショナルチームの監督を歴任し、アメリカ代表の監督として北京五輪と第2回WBCでは銅メダルを獲得している。

その後はワシントン・ナショナルズのフロントに入って働いていたが、2011年シーズン途中に70歳を目前にして監督に就任。モントリオール・エクスポズ時代から長年どうしようもない弱小チームとして知られたナショナルズはたちまち持ち直し、2012年シーズンには1981年以来となる地区優勝を達成。最優秀監督賞を受賞した。

翌シーズンを持って監督を引退。現在はナショナルズの顧問に収まっている。

https://twitter.com/Mets/status/1090695169798799363

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