ジョージ・フォスター George Foster 〜The Destroyer〜

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George Foster (ジョージ・フォスター)
(1948-)
Baseballer
Position:Out Fielder
Threw/Batted:R/R
Height:185cm Weight:81kg

Stuts

アラバマの綿農園で生まれたフォスターだったが、8歳の時に両親が離婚し、母親に連れられてカリフォルニアに移り本格的に野球を始めた。チームメイトにはデーブ・キングマンが居たという。

ハイスクールで頭角を現わし、1968年にドラフト3巡目でサンフランシスコ・ジャイアンツが指名。憧れのウィリー・メイズの後を追うようにプロの世界に入り、1969年には速くもメジャーデビュー。しかしバッティングに粗が目立ち、メンタルにも難があり、何よりメイズが君臨していてポジションがなかった。

結局1971年シーズン途中にトレードでシンシナティ・レッズに移籍。強豪のジャイアンツから最下位争いの常連だったレッズへの移籍はフォスターにとって不満ではあったが、レッズでセンターの定位置を掴み、打率.234ながらも10HR、50打点を記録して大器の片鱗を見せた。

1972年シーズンはシーザー・ジェロニモとのツープラトン体制になったが、これが原因でかえって調子を落とし、チームはワールドシリーズに進出したというのにフォスターは打席に立つ機会を与えられなかった。

翌シーズンはほとんどマイナーで暮らし、気の弱いところのあるフォスターはすっかり気落ちしてしまうのだが、信仰に目覚めて熱心なクリスチャンになると課題のメンタルは大きく改善。1974年にはそのご利益が現れ、メジャーに戻ることが出来た。

翌シーズン、それまで外野手だったピート・ローズがサードへコンバートされ、空いたレフトにフォスターが入る形になった。70年代のMLBを震撼させた強力打線”ビッグレッドマシン”の誕生である。フォスターは.300、23HR、78打点を打ってチームのワールドシリーズ制覇に大きく貢献した。

しかし、フォスターの本領はこれからであった。続く1976年は開幕から恐ろしい勢いで打ちまくり、オールスターに初選出されると2HRを打ってMVPを獲得。終わってみれば打率.306、29HR、121打点で打点王のタイトルを獲得し、MVP投票は同僚ジョー・モーガンに次ぐ堂々の2位。チームは2年連続の世界一に輝いた。

以後、フォスターには”Destroyer”(破壊者)の異名が付いた。破壊的なパワーの一方、酒も煙草も争い事も好まず、若手にお古の道具と教えを気前良く与えるナイスガイのフォスターは名実ともにビッグレッドマシンの中心であった。

1977年はあわや三冠王となる打率.320、52HR、124打点の大暴れでHR王、打点王を獲得し、去年取り逃がしたMVPも獲得。オフには結婚し、新婚旅行も兼ねて日米野球にも参加している。翌シーズンも二冠王を獲得。ビッグレッドマシンの面々が少しずつチームを離れていく中で一人気を吐いていたが、契約のこじれから1981年シーズン終了後にニューヨーク・メッツにトレードされた。

メッツは5年1000万ドルという当時のMLBレコードとなる大型契約でフォスターを迎え入れたものの、33歳とあってメッツでは徐々に衰えていく。HRがさほど伸びなかったのも痛かったが、守備でもチームの足を引っ張る形になり、デービー・ジョンソン監督と確執を作るようになってしまう。

それでも初年度13HRで終わった以外は20本前後は打っていたのだが、1986年に古巣のレッズ戦で乱闘が起きた。荒くれ揃いのメッツナインは、かつてレッズで世話をしたボクシングの心得のあるレイ・ナイトを先頭に嬉々として闘いに向かった。

ところが、子供も見ている野球の試合で乱闘などはフォスターの主義に反する。まして古巣のレッズ相手である。一人ベンチに残って知らぬ存ぜぬで通した。

この試合を機にフォスターはレギュラーの座をケビン・ミッチェルに明け渡すことになった。これには流石のフォスターも怒った。勢い余ってジョンソン監督は人種差別をしているとチーム批判をぶちまけ、この事が新聞に乗ったまさにその日にフォスターは解雇された。

フォスターの批判に賛同するチームメイトは少なからず居たというが、ミッチェルも黒人なので若干の疑問符が付く。

その後シカゴ・ホワイトソックスに拾われたが、もはやフォスターの衰えは明らかで、同シーズン限りで現役を引退した。日本球界入りも考えていたようだが、大物過ぎて引き受けるチームはなかった。

ちなみに同年メッツはワールドシリーズを制し、途中で解雇になったフォスターにもチャンピオンリングが贈られた。

引退後はOBを集めた野球リーグに参加した他、マイナーやアマチュアのコーチを歴任。その後は野球教室を開いて少年野球の普及に努めている。更に2010年にはオリックス・バファローズのアドバイザーに就任。2003年にはレッズの殿堂入りを果たしている。

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