ハーブ・ワシントン Herb Washington ~Hurricane Herb~

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Herb Washington (ハーブ・ワシントン)
(1951-)
Baseballer
Position:Pinch Runner
Threw/Batted:R/R
Height:183cm Weight:77kg

Stuts

永田雅一という人物がいた。大映の社長にして大毎オリオンズのオーナーであり、永田ラッパの異名を取った名物オーナーであった。

チャーリー・O・フィンリーという人物がいた。アスレチックスのオーナーであり、数多のアイデアでMLBを盛り上げた名物オーナーであった。

不思議なもので、この両者はやる事が似ている。代走専門選手の獲得がそうだ。永田が100m走でメキシコシティオリンピックに出た飯島秀雄を獲得して失敗したのは有名だが、フィンリーもまたハーブ・ワシントンを獲得して失敗しているのだ。

ミシシッピで生まれてミシガンで育ったワシントンの家は貧しかった。夏休みには両親の働く自動車工場でアルバイトをして家計を助けたという。

かろうじて高校に進むとワシントンの運命が変わった。短距離走で頭角を現し、未来のオリンピアとして将来を嘱望され、各地の大学から奨学金の申し出が殺到。黒人選手の獲得に積極的だった地元のミシガン州立大をワシントンは選んだ。

大学での活躍は目覚ましく、50ヤード走と60ヤード走で世界新記録を樹立。付いたあだ名は”Hurricane Herb”であった。

更にはWRとしてフットボールもプレーし、ミュンヘンオリンピックの候補となった矢先、1972年のNFLドラフトでボルチモア・コルツから13巡目で指名された。東京オリンピックで金メダルを獲得し、その一方でプロフットボール殿堂入りも果たしたボブ・ヘイズの二匹目のどじょうを狙ったのだ。

アマチュア規定に触れる恐れがあったため一旦契約を保留して代表選考に力を入れるワシントンだったが、選考から漏れて代表入りはならず、そうこうする間にコルツとの契約も流れてしまった。

だが、ワシントンは父の教えに従って勉強の方も頑張った。所詮アスリートなどというものは、選手生命を終えたら潰しが効かないからだ。ついには博士号を取得したというのだから、足だけでなく頭の回転も速かったのだ。

卒業後は新興リーグのWFL入りも狙ったものの、結局ラジオ局で働いていた。その矢先の1974年、フィンリーからアスレチックス入りのオファーが来た。

ワシントンは14歳以来野球をプレーしたことがなかったが、このオファーに対して強気で交渉し、当時のレギュラー選手並みの契約金20000ドル、年俸45000ドル、更に自分から申し出ない限り解雇されないという破格の条件を取り付けて入団した。

一方、フィンリーも黙っていなかった。髭を生やすことを条件に提示したのだ。当時アスレチックスの選手は髭を生やすことを奨励され、”マスターシュ・ギャング”の異名で売っていたからだ。髭の薄いワシントンは結局開幕までに髭が生えそろわず、眉ペンで髭を描いて間に合わせたという。

後にも先にもワシントン一人だけというポジションが”ピンチランナー”のカードが作られるなど話題は集めたが、全くワシントンは活躍できなかった。

ルーキーイヤーはワールドシリーズの優勝メンバーに名を連ねる栄誉を得たものの、45回盗塁を試みて29盗塁という数字は世界一足の速い男にしてはやはり物足りない。しかも、楽な場面でしか成功していないという話もある。

そして何を思ったのかフィンリーは代走要員に凝り始めた。翌シーズン以降何人か足の速いマイナーリーガーを無理やり引っ張り上げ、ことごとく失敗した。そして彼らに出場機会を奪われ、ワシントンは1975年シーズン限りで野球から足を洗った。ついに代走以外での出場機会はなかった。

全くチームには貢献できなかったが、知的でユーモアに富んだワシントンはチームメイトからは愛された。必要ないからとバットもグラブもないワシントンのロッカーにはチームメイト一同からお古の道具が贈られて体裁が整えられた。特に”商売敵”のはずのリードオフマン、ビリー・ノースとは大の親友で、遠征先ではいつも隣り合って部屋を取った。その他の選手からも人間としての悪評は聞こえてこない。ワシントンにとっても野球選手時代は良き思い出だと言う。

引退後はプロの陸上選手として短期間活動した後、実業家に転身。マクドナルドのフランチャイズを皮切りに事業をどんどん拡大させ、今ではアメリカきっての黒人実業家として経済界に名を轟かせている。

陸上界に、球界に、経済界に、ワシントンは嵐を呼ぶ男だ。

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