マッドキャット・グラント Mudcat Grant ~Black Ace~

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Mudcat Grant (マッドキャット・グラント)
(1935-)
Baseballer
Position:Pitcher
Threw/Batted:R/R
Height:185cm Weight:84kg
Relatives:
Domonic Brown(ドモニク・ブラウン)(甥)

Stuts

黒人のピッチャーというのは不思議と少ない。QBや陸上の投擲競技にも少ないのを鑑みるに、黒人の身体は物を投げるという行為にはあまり向かないのかもしれない。黒人の定義にもよるが、ジャッキー・ロビンソン以後のMLBで黒人の20勝投手は精々20人程しかいない。

彼らは”Black Aces”という親睦団体を組織している。その発起人となったのが今回の主人公のマッドキャット・グラントだ。

1935年にフロリダの山奥で生まれたジェームス・ティモシー・グラントの前半生は辛いものだった。木こりだった父親を早くに亡くし、母親が缶詰工場で朝から晩まで働いて七人の子供達を養った。

差別と貧困に苦しみながらもハイスクールに進み、野球、フットボール、バスケットのいずれでも大活躍。奨学金を得てフロリダA&M大に進んだものの、奨学金をもらったところで家族まで食べさせることはできない。やむなくグラントは大学を中退し、家族を養うために大工として修業を始めた。

ところが神様はグラントを見離さなかった。ハイスクール時代のグラントに目をつけていたクリーブランド・インディアンスのスカウトに誘われ、野球選手として生きる道が開けたのだ。1954年の事だった。

“Mudcat”(ナマズ)というあだ名がついたのもこの頃だ。チームメイトの一人がグラントをナマズの産地であるミシシッピ州出身と勝手に思い込み、そう呼んだのが当人の知らない間に定着したという。

まだ黒人差別が当然のように横行する時代だったが、グラントはマイナーでめきめきと頭角を現し、1958年にメジャーデビューを果たした。ちなみに打撃の方も凄く、1955年にはクラスBで5HRを記録している。

ルーキーイヤーから10勝11敗としてチームの主力投手に躍り出ると、1961年には15勝9敗の好成績をマーク。1963年には13勝14敗でオールスターに初選出。

翌シーズン途中にトレードでミネソタ・ツインズに移籍すると、翌シーズンはなんと最多勝となる21勝5敗、これまたリーグ最多の6完封を記録。アメリカンリーグ初の黒人20勝投手として野球史に名を刻んだ。

同年はチームも好調で、ワールドシリーズに進出。ロサンゼルス・ドジャース相手に2勝を挙げ、これまたアメリカンリーグ初のワールドシリーズ黒人勝利投手となり、自らHRまで打ったのだが、チームは3勝4敗で惜しくも世界一を逃した。

1967年シーズン終了後に因縁のドジャースにトレードされたのを機にリリーフに回り、シーズン終了後にはエキスパンションドラフトでモントリオール・エクスポズに移籍。以後はカージナルス、アスレチックス、パイレーツと慌ただしくチームを変わり、1971シーズン途中にアスレチックスに出戻り、これを最後に現役を引退した。通算145勝という偉大な記録を残している。

引退後は解説者やマイナーのコーチ、インディアンスのフロントを歴任、その傍らでソフトボールのプロリーグの運営やバドワイザーの代理店等の事業を手掛け、更には黒人選手の研究家として活動。”Black Aces”という本を書いてホワイトハウスに招待されるなど、幅広く活躍している。

“Black Aces”は後進の黒人選手への支援も行っていて、その中にはグラントの甥であるドモニク・ブラウンも居る

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