リップ・シーウェル Rip Sewell ~遅球王~

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Rip Sewell (リップ・シーウェル)
(1907-1989)
Baseballer
Position:Pitcher
Threw/Batted:R/R
Height:185cm Weight:81kg
Relatives:
Luke Sewell (ルーク・シーウェル)(いとこ)
Joe Sewell (ジョー・シーウェル)(いとこ)

Tommy Sewell (トミー・シーウェル)(いとこ)
Stuts

往々にして新しい物は忘れ去られた古い物であるという。多田野数人がマイナーで苦労の末に編み出し、アレックス・ロドリゲスを打ち取った山なりのスローボールがそうだ。リップ・シーウェルは60年も前に同じ事をやった。

従兄弟のルークはオールスターに出場してブラウンズやレッズの監督を務め、その弟のジョーは言わずと知れた戦前のスタープレイヤー。末弟のトミーも大リーガーという一族に生まれたシーウェル。

当初はフットボールプレイヤーを志してヴァンダービルド大へ進んだが、学業不振で1年で退学を余儀なくされてしまい、その後は働きながらセミプロの野球選手としてプレーする生活を始めた。

1932年に25歳にしてデトロイト・タイガースでメジャーデビューしたが、全く実績を残せずマイナー降格。その後1934年にタイガースのキャンプに呼ばれ、2度目のチャンスをつかんだ矢先に事件が起きた。

ユダヤ人大リーガーの祖、ハンク・グリーンバーグが当時のタイガースの目玉選手であった。当時はアメリカでも反ユダヤの風潮が強く、ワールドシリーズを欠場してでも安息日を守ろうとする敬虔なユダヤ教徒のグリーンバーグは、アラバマ生まれの典型的南部人であるシーウェルにとって面白くない存在であった。

シーウェルの差別的な言葉をきっかけに二人は殴り合いの喧嘩を起こして警察沙汰になり、シーウェルはそのままマイナーに送り返された。

せっかくのチャンスをふいにしたシーウェルはその後ずっとマイナーで過ごした。メジャーへの再昇格は1938年、ピッツバーグ・パイレーツに移ってからの事である。既に33歳になっていた。

翌シーズンからメジャーに定着し、10勝9敗を記録してようやく世に出ると、翌シーズンは16勝5敗の大活躍でMVP投票にも票が入っている。1941年には14勝17敗。しかし、オフにまた事件が起きた。

シーウェルは南部の男らしくハンティングが趣味で、オフには仲間と銃を手に山をうろつくのを常としていた。その仲間の銃が暴発したのだ。シーウェルは右足の親指が欠けて入院した。太平洋戦争が始まったというのに兵役不適格となったのだから重傷だ。

足の親指が無くなってはアスリートとして致命的だが、シーウェルは中年に差し掛かってようやく手に入れたチャンスを手放したくなかった。試行錯誤の末にある秘策を身に着け、古巣タイガースとのオープン戦でマウンドに立った。

後にはオールスターに出場するディック・ウェイクフィールドは、ぎこちないフォームでシーウェルの右手から投じられたスローボールを相手に何度かバットを振り直した挙句、結局空振りした。球場は笑い声に包まれたという。

1942年シーズン、多くの大リーガーが徴兵されたのにも助けられ、シーウェルはスローボールという新しい武器をフル活用して17勝15敗を記録して復活。翌シーズンは21勝で最多勝を記録するとともにオールスターに初選出。

オールスターは翌シーズンも選出され、シーウェルは名物選手として人気を獲得。戦争で暗くなった世相を必殺のスローボールで少しばかり盛り上げつつ勝ち星を重ねるのだった。しかし、1945年に戦争が終わると戦地に赴いていたスター選手たちが徐々に復員してきて成績が落ちてしまう。

それでも1946年には3度目のオールスターに選出された。シーウェルはこれが最後のひのき舞台と悟ったのか、海兵隊で3年も従軍した帰りでありながら3割を軽く超えて打ちまくる”打撃王”テッド・ウィリアムズに対し、スローボールでの勝負を宣言して話題を呼んだ。

果たして本番、シーウェルは本当にスローボールを投げた。初球は見逃したウィリアムズだったが、続く2球目、前のめりになりながらウィリアムズはスローボールをライトスタンドに叩き込んだ。シーウェルのスローボールがホームランになったのは後にも先にもこれだけである。

「来るのを知っていたから」と滅多に見せぬ笑顔でホームインする武骨者の”打撃王”と、戦争の終わりを記念するような名場面を作ったエンターテイナーの”遅球王”にファンはスタンディングオベーションを贈った。

だが、数年後にウィリアムズは足がバッターボックスから前に出てしまっていたことを白状した。勝敗は判然としないがとにかく野球史に残る名勝負であった。

続く1947年にはパイレーツに一人の強打者が加わった。因縁のグリーンバーグだ。だが、グリーンバーグはシーウェルのシーズン初勝利をツーベースを打って援護した。以来二人は和解して友人になったという。シーウェルも苦労をして丸くなったということなのだろう。

その後も選手会と対立したりしながら元気に投げ、1948年には13勝3敗で最高勝率を記録。翌シーズンも42歳にして6勝を挙げ、これを持って現役を引退した。終わってみれば143勝。狂い咲きの野球人生であった。

1989年に82歳で死去。誰にも打てなかったスローボールより、ウィリアムズにしか打てなかったスローボールの方が説得力がある気がするのは私だけだろうか?

1946 ASG: Ted Williams homers off Sewell's eephus pitch

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