Terry Kennedy (テリー・ケネディ)
(1956-)
Baseballer
Position:Catcher
Threw/Batted:R/L
Height:190cm Weight:99kg
Relatives:
Bob Kennedy (ボブ・ケネディ)(父親)
Stats
父のボブは1948年のワールドシリーズの優勝メンバーで、後にはカブスやアスレチックスの監督も務めている。彼の5人の息子たちはボブのチームメートの一流選手達から教えを受ける幸運に預かった。
特にあの気難しいテッド・ウィリアムズがボブの息子たちに熱心に指導した。スタン・ミュージアルも彼らの良き先生であった。末息子のテリーはとりわけキャッチャーとして才能を発揮し、父親のコネもあってフロリダ州立大学へ進学した。
母親に送られてフロリダへ向かう途中、テリーはペンサコーラの海軍航空隊の基地へ連れていかれた。朝鮮戦争の折、出征に際してウィリアムズはこの基地でボブからジェット機の操縦訓練を受けたのだ。
先の大戦では腕利きのパイロットだったウィリアムズはボブの指導の甲斐もあってジェット機にもたちまち順応し、生きて帰ってくることができた。ウィリアムズはボブに恩義があったのだ。
入学の経緯はコネであったが、ケネディは1年生でありながらオールアメリカンに選ばれる快挙を達成し、プロスペクトとして名を売った。ボブがシカゴ・カブスの副社長を務めていたことからカブスが指名するといわれていたが、1977年に全体6位でセントルイス・カージナルスに指名された。
マイナーではスイッチヒッターに挑戦したりしつつたちまちのうちに頭角を現し、1978年にはメジャーデビューを果たしたが、正捕手のテッド・シモンズの壁は厚く、すぐにマイナーへと戻された。
ケネディの素質は高く評価され、カブスを含む8チームからトレードの申し出が殺到したが、翌シーズンにはシモンズが負傷し、その間に昇格。徐々に正捕手の椅子へと近づいていくのだが、カージナルスフロントはダレル・ポーターを獲得し、ケネディは22選手の絡むトレード劇でサンディエゴ・パドレスに移籍した。
パドレスでようやく正捕手の座を射止め、2HRながらも打率.301を打ち、オールスターに初選出。
翌シーズンはディック・ウィリアムズが新監督に就任。190センチ100キロの巨体を持ちながら、スイングが小さく非力なところのあったケネディはウィリアムズの指導で思い切りのよいバッティングを身に着け、打率.295、21HR、97打点をマークして打撃に開眼。シルバースラッガー賞を獲得した。
しかしチームは大味な野球に終始して勝ち越すことがままならず、ケネディは「今日の俺たちはキングコングで、次の日はフェイ・レイになる」と皮肉なチーム評を残している。
また、ウィリアムズはケネディの打撃を高く買う一方で守備力を酷評した。単純に下手というよりもムラがある扱いにくいタイプで、頑丈で打撃では武器になる巨体を守備では持て余した。
ダンスインストラクターの妻にダンスを教わって俊敏性を改善しようともしたが、ケネディには全くダンスの才能はなかったようだ。そしてケネディは人望篤い人格者だったが、訛りが強いのもキャッチャーとしてはマイナスであった。
やがてトニー・グウィンやケビン・マクレイノルズといった若手が台頭してチーム成績は上向き始め、1983年には2度目のオールスターに選出され、1984年にはワールドシリーズ進出を達成するが、ファーストへのコンバートが取り沙汰されるなどケネディの守備力は良くも悪くも変わらず、ベニート・サンティアゴの台頭もあってトレードが噂されるようになった。
1985年には3度目のオールスターに選出されたが、1986年シーズン終了後にはチームはサンティアゴを正捕手に据える方針を固め、ケネディはボルチモア・オリオールズに放出された。
オリオールズでは4度目のオールスターにファン投票に選出され、シモンズに次ぐ史上2人目の両リーグでのファン投票選出捕手となったが、シーズン終了後にボブが副社長を務めていたサンフランシスコ・ジャイアンツに呼び寄せられた。ジャイアンツはカート・マンワリングを将来的に正捕手として育てる方針だったが、マンワリングは経験が浅く、ケネディは指導役として期待を寄せられた。
マンワリングは正捕手のケネディから多くの事を学び取った。投手陣からも信頼篤く、ワールドシリーズ進出を達成。このシーズン限りで正捕手の座を明け渡し、1991年で現役を引退した。
引退後はマイナーで長きにわたって指導者を歴任。最優秀監督に選ばれるなど高い実績を残し、現在はフェニックスで妻と不動産屋を営みながらカブスのスカウトを務めている。
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