チャンシー・ビラップス Chauncey Billups ~Mr, Big shot~

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Chauncey Billups(チャンシー・ビラップス)
(1976-)
Basketballer
Position: Point Guard/Shooting Guard
Collage:Colorado
Height:190cm Weight:91kg
Relatives:
LenDale White(レンデル・ホワイト)(いとこ)
Stats

 ビラップスはデンバーで生まれ、3年連続でコロラドのミスターバスケットボールに選ばれるスタープレイヤーだった。いとこはNFLでシーズン15TDを記録したRBレンデル・ホワイト、弟のロドニーもDリーグでプレーしている。

 マクドナルドオールアメリカンは肩の負傷で欠場したものの各地の大学から奨学金の申し出が殺到し、地元のコロラド大に進学。

 コロラド大はお世辞にも強いとは言えないチームだったが、ビラップスの活躍で1996-1997シーズンには第9シードで1969年以来となるNCAAトーナメントに出場。これ以後2003年まで出場は叶わなかったのだからビラップスの存在感は絶大という事だ。

 アーリーエントリーし、1997年にティム・ダンカン、キース・ヴァン・ホーンに次ぐ3位指名でボストン・セルティックスが指名。

 しかし、高いポテンシャルを持ちながら新任のリック・ピティーノHCとそりが合わず、不貞腐れてロン・マーサーやマイケル・アービンと一緒にレイプ騒動を起こすなど問題児ぶりを露呈し、トレード期限ぎりぎりに4対3の大型トレードでトロント・ラプターズに放出された。

 ラプターズでも1試合20得点を記録するなど存在感は見せたものの、1998-1999シーズンは出場機会がないまま地元のデンバー・ナゲッツにトレード。

 翌1999-2000シーズン途中に今度はオーランド・マジックにトレード。しかし、肩の故障で故障者リストに入ったままマジックではプレーすることなく、シーズン終了後に解雇されてミネソタ・ティンバーウルブルズと契約した。

 この頃のビラップスの評価は救いようのないバストだった。しかし、テレル・ブランドンの控えとしてバスケットの何たるかを学び取り、ブランドンの引退した2001-2002シーズンからはスターターに定着した。

 苦労をし、妻子を得て人格的にも成長したビラップスは生来のクラッチさとディフェンス力に加えてチームリーダーとしての素養を身に着け、チームは50勝を記録。

 ビラップスは再契約を望んだが、膝の怪我がネックになってFAになり、5年3500万ドルでチーム再建の途上にあったデトロイト・ピストンズと契約した。

 ジョー・デュマースに憧れてずっと背番号”4″で通してきたビラップスだが、誰あろうデュマースの永久欠番になっているので背番号を”1″に変更。たちまちのうちにチーム屈指の人気選手に上り詰めた。

 ビラップスの人気はシーズン終盤になって決定付けられた。3月9日のウォリアーズ戦で31得点を荒稼ぎし、26日のホークス戦では22得点を記録し、オーバータイムのラスト0.5秒でスリーポイントを決めて劇的勝利。

 これ以来、無類の勝負強さでデトロイト市民の心を鷲掴みにしたビラップスには”Mr. Big shot”というニックネームが付いた。

 ピストンズは2年連続の地区優勝を達成し、プレーオフ初戦のオーランド・マジック戦では第5戦で15得点を稼いで98-67の大勝。第6戦は31得点、第7戦は37得点の大暴れでマジックを撃破。カンファレンス・ファイナルまで駒を進めた。

 HCがリック・カーライルからラリー・ブラウンに変わった翌シーズンは平均16.9得点、5.7アシストの大活躍。チームは58勝を挙げ、雪辱を期してプレーオフへと進んだ。

 ミルウォーキー・バックスとの第3戦では21得点を記録。ラスト5分で猛烈なファール攻勢に遭いながら4本のフリースローをすべて成功させ、終盤での勝負強さを遺憾なく発揮。

 昨シーズン負かされたニュージャージー・ネッツには第5戦最終盤に同点の3ポイントを決め、トリプルオーバータイムまでもつれ込む激闘をお膳立て。

 セミファイナルでペイサーズを難なく下して迎えたファイナルでは、ロサンゼルス・レイカーズを相手に平均21得点、5.2アシストの大活躍で見事優勝。

 憧れのデュマース以来となるファイナルMVPを獲得したが。ビラップスは「皆にMVPの資格がある。13個に切り分けたい」と言ってのけた。

 ロジャー・ストーバックがケネディの暗殺にもめげずハイズマン賞を獲得した時に同じことを言ったという。ルーキーイヤーに売り飛ばされたバストがストーバックと同じ次元まで成長したのだ。

 ビラップスへの人気と信頼は不動のものになり、連覇を狙った翌シーズンは同期のダンカン率いるサンアントニオ・スパーズの前に敗れ去ったものの、翌2005-2006シーズンにはオールスターに初選出。オフには4年4600万ドルの大型契約を勝ち取った。

 根性の塊のようなプレーが持ち味のビラップスだが、根性が行き過ぎて怪我が多いのが何点であった。3年連続のオールスターに選ばれた2007-2008シーズンのプレーオフで、マジックとの第3戦でジャミーア・ネルソンと交錯して右のハムストリングを負傷。その後のゲームも強行出場したものの、カンファレンスファイナルに古巣のセルティックスに敗れた。

 北京五輪の代表にも選出され、ラマー・オドムと共同キャプテンとして若手中心のチームをけん引。しかし、本線は家族との時間を優先するために辞退した。

 「彼らなら金メダルを取ってこれる」との予言通り、アメリカ代表は無敗で金メダルを獲得した。

 しかし、翌2008-2009シーズン開幕直後にビラップスはアレン・アイバーソンとの3対1のトレードでナゲッツへと復帰することになった。

 ビラップスを弟のように可愛がっていたデュマースにとってこれは困難な選択であったという。前回の”出戻り”と違って”凱旋”であるビラップスにとってもそれは同じだったろう。

 背番号は”1″も”4″も埋まっていたので、ジョン・エルウェイにあやかって今度は”7″に変更。カーメロ・アンソニーとのコンビで大活躍を見せて4回目のオールスターに選出。チームタイ記録の54勝を記録。

 プレーオフもカンファレンスファイナルまで勝ち進み、7年連続の進出という快挙を達成。セルティックスの11連覇以降ではマジック・ジョンソン、カリーム・アブドゥル・ジャバー、マイケル・クーパー、カート・ランビスしか達成していない大記録である。

 翌シーズンはJ.R,スミスに背番号”1″を譲ってもらい、キャリアハイのスリーポイント成功率.441を記録してオールスターの連続選出を5に伸ばしたが、相棒のアンソニーがひと悶着起こしてしまう。

 常々地元のニューヨーク・ニックスでプレーしたいとわがままを言っていたアンソニーはトレードを強く志願し、2009年11月27日にそれが叶えられたが、ビラップスもこのトレードに組み込まれてしまったのだ。

 ビラップスにとってこのトレードは人生最大の困難であったという。アンソニーが故郷へ錦を飾りたいようにビラップスもデンバーで引退したかったし、何より娘たちと離れて単身赴任になるのが耐え難かったのだ。

 当人たちの意思はともかくニックスとしてはナゲッツのゴールデンコンビがそのまま来るのはありがたい話で、その甲斐あってチームは2004年以来のプレーオフに駒を進めた。しかし、ビラップスは初戦で故障してそのままプレーオフの残りを欠場する羽目になった。

 しかし、この怪我がビラップスを心変わりさせた。シーズン通して戦えば頂点を狙えると考えたのだ。しかし、ニックスは怪我の心配もあってビラップスを放出した。

 強豪チーム志向のビラップスなのでレイカーズやヒートが獲得するという噂が立ったが、ウェーバーでよりにもよって名うての駄目チームだったロサンゼルス・クリッパーズがビラップスを獲得してしまった。

 引退も覚悟したビラップスだったが、クリッパーズは勝ちに行く意思を示す為にクリス・ポールを更に獲得。ビラップスは意気に感じてクリッパーズでのプレーを決意した。

 その甲斐あってクリッパーズは19勝1敗のロケットスタートを決めたが、ビラップスはここでアキレス腱を切って戦線離脱。しかし、チームは6年ぶりにプレーオフに返り咲いた。

 しかし、類稀な人望とリーダーシップが認められ、このシーズン創設されたNBAチームメイトオブザイヤーの記念すべき第1号に選出された。

 シーズンをちゃんと戦えなかったのを悔いて「正直照れ臭い」という謙虚なコメントを残しているが、これはそういう男が選ばれる賞だ。

 残念ながらこれが最後の輝きで、翌シーズンも満足にプレーできず、オフに選手生活を締めくくるべくピストンズに復帰。この2013-2014年シーズンを持ってついに現役を退いた。

 引退後はESPNで解説者となり、その一方で3on3のプロリーグで現役復帰するなど、人徳を偲ばせる第二の人生を歩んでいる。背番号”1″はデュマースと並んでピストンズの永久欠番となった。

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