Harold Miner(ハロルド・マイナー)
(1971-)
Basketballer
Position: Shooting Guard
Collage:USC
Height:196cm Weight:95kg
Stats
カリフォルニアでも最も貧しい地区に育ったマイナーだったが、バスケットに才能を発揮し、ハイスクールでは背番号”23″を背負い、早くも”Baby Jordan”の異名を頂戴して有名選手であった。
USCに進んでも相変わらずの大活躍で、1992年にはPAC-10カンファレンスの最優秀選手に選ばれ、チームをNCAAトーナメント第2シードまで躍進させる原動力となった。
更にスポーツイラストレイテッド誌はクリスチャン・レイトナー、アロンゾ・モーニング、シャキール・オニールら錚々たる面々を向こうに回してマイナーをカレッジ最優秀選手に選定して表紙に起用。同年全体12位でマイアミ・ヒートに入団した。
ルーキーイヤーから垂直飛び122センチという驚異の跳躍力を買われてスラムダンクコンテストに出場し、同期の”Baby Barkray”ことクラレンス・ウェザースプーンを破って見事に優勝。
翌シーズンはアイザイア・ライダーの前に敗れたものの、続く1995年は雪辱を果たして2度目の優勝を達成。押しも押されぬ全国区の選手となった。
当時はまだこのコンテストも始まって日が浅く、思わぬ仕掛けを考えた選手が勝つところがあったが、単純な身体能力だけで2度の優勝を勝ち取ったマイナーは異色の存在であり、際立っていた。
第1回を優勝したラリー・ナンス・シニア以来、スラムダンクコンテストの優勝者は出世するというジンクスがある。しかし、マイナーはというと2度も優勝しておいて全く駄目であった。
得点力は高いものの、大学時代から膝を痛めていたので常時の出場は厳しかった。そもそも、マイケル・ジョーダンと比べられるのはマイナーにとって名誉というよりも重荷であった。
異名と背番号”32″が重いわけではあるまいが、SGからPGにコンバートされた1994-1995シーズンはわずか45試合の出場に終わり、シーズン終了後に指名権と交換でクリーブランド・キャバリアーズに移籍。
キャブスでは僅か19試合しか出場できず、シーズン途中にビクター・アレキサンダーとの交換で一旦はトロント・ラプターズとのトレードが決まるものの、アレキサンダーの負傷で6日後にトレードは無効になり、シーズン終了後に解雇。
その後ラプターズのトライアウトを改めて受けたものの契約に至らず、僅か4年、24歳の若さでマイナーはコートを去った。結局彼はジョーダンにはなれなかった。
それ以来彼は選手時代の人間関係を清算して姿を消し、消息が聞かれなくなった。選手としての失敗が彼をバスケットの世界から遠ざけてきたが、2010年になってようやくインタビューに応じ、表舞台に姿を現した。
引退後のマイナーはラスベガスに移り住んで不動産投資で成功をおさめ、妻子にも恵まれて第二の人生を順調に過ごしている。インタビューに応じたのを機に顕彰の動きも出始め、2011年にはPAC-10カンファレンスの殿堂入り。更に背番号”23″はUSCの永久欠番となった。
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