コービー・ブライアント Kobe Bryant ~Black Mamba~

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Kobe Bryant(コービー・ブライアント)
(1978-2020)
Basketballer
Position: Shooting Guard
Collage: None
Height:198cm Weight:96kg
Relatives:
Joe Bryant (ジョー・ブライアント)(父親)
John cox (ジョン・コックス)(おじ)
Stats

https://twitter.com/enews/status/1225574860119777281

ジョー・ブライアントはNBAではぱっとしない選手であったが、それでもNBA選手なので稼ぎは良く、お気に入りのステーキハウスは日本の神戸牛を使っていて、値は張るがとても美味かった。

かくしてジョーは同僚のジョン・コックスの妹であるパメラとの間に生まれた息子に”Kobe”と名付けた。馬鹿馬鹿しいがあまりに有名なエピソードだ。この縁でコービーは後年神戸市の大使を長年務めた。

ジョーはやがてNBAに居られる力を失ってイタリアに渡った。コービーはそこでイタリア語とスペイン語を覚え、ジョーの同僚のマイク・ダントーニのプレーとACミランに魅了された。

13歳でアメリカに戻り、ハイスクールでは凄まじい活躍ぶりで方々の大学から奨学金の申し出が殺到したが、コービーは高卒でのアーリーエントリーを決断した。ケビン・ガーネットに触発されたのだという。

かくして1996年、全体13位でシャーロット・ホーネッツが指名してその直後にロサンゼルス・レイカーズにトレードされた。交換相手はなんとブラド・ディバッツである。レイカーズがどれほどコービーに期待していたのか見て取れる。

ルーキーイヤーから71試合に出場し、18歳158日での先発出場という最年少記録を達成。更にスラムダンクコンテストで優勝し、22歳の年長者に混じってオールルーキー2ndに選ばれて大器の片鱗を見せ付けた。

ファンからも絶大な期待を寄せられ、翌1997-1998シーズンにはオールスターに早くも選出。同僚のシャキール・オニール、エディー・ジョーンズ、ニック・ヴァン・エクセルと同じチームから4人の選出という新記録を打ち立てた。

短縮シーズンとなった1998-1999シーズンからスターターに完全定着。平均19.9得点、3.8アシスト、1.4スティールを記録。末はジョンソンかジョーダンかとこの青年にロス市民は熱狂した。

翌シーズンにはフィル・ジャクソンがHCに就任。難しいトライアングルオフェンスをコービーはすぐにモノにして、平均22.5得点、4.9アシスト、1.6スティールを記録。シーズン64勝という圧倒的な成績でファイナルまで突き進んだ。

インディアナ・ペーサーズを迎え撃ってのファイナルではコービーはもう手の付けようがなく、第2戦でジェイレイン・ローズはコービーが飛んだところで着地点に自分の足を置くという強行手段に出た。

果たしてコービーは転倒して第3戦を欠場したが、それでも大勢を変えるには至らず、レイカーズはファイナル制覇を達成した。

このシーズン、コービーは長らく”定位置”となるオールディフェンシブ1stに選ばれている。コービーはえげつないまでの執念でディフェンスをした。そして大舞台になるほど、試合終了が近付くほど勝負強くなった。

そして何より、コービーはヒールとしての魅力があった。歌舞伎の世界には色気ある悪党を指す”色悪”という言葉があるが、敵に回すとあまりに恐ろしく、ファンにとっても扱いに手を焼くやんちゃ者のコービーはまさに色悪であった。

狙った獲物を絶対に逃がさない執念に、恐ろしく素早く毒の強いアフリカの毒蛇にちなんで”Black Mamba”というあだ名がついた。いささか出来過ぎているが、よく似合ったニックネームだ。

そう考えれば人身掌握術に優れたジャクソンがHCになったのは最高の巡り会わせだったのだろう。二枚看板のシャックと反目しながらも、レイカーズは3連覇を達成して黄金時代を築くのだった。

しかし、この頃から問題児ぶりが露呈し始める。ある時はレジー・ミラーを殴りつけて出場停止になり、主力がどんどん抜けてチームの弱体化した2003年には悪名高いレイプ疑惑騒動が起こる。ジャクソンとも徐々に確執ができていく。

しかし、コービーがこの世界によく居る悪党と違うのは、各種のトラブルをバスケットに影響させないことだった。常に一番乗りでコートに現れる練習量と、怪我をしても絶対に欠場をしようとしない闘志に裏打ちされたパフォーマンスがますますコービーをヒールとして際立たせるのだった。

2003年1月7日のシアトル・スーパーソニック戦では当時のレコードとなるスリーポイント12本を記録。後にステフィン・カリーが13本を記録して追い抜かれたが、今でもドニエル・マーシャルと並ぶ歴代2位タイの大記録である。そして2003-2004シーズンにはデトロイト・ピストンズに敗れはしたもののファイナルに返り咲いた。

2004-2005シーズンにはシャックがチームを去ってプロ入り以来初の負け越しを味わったが、その後はチームの中心として奮起して巻き返し、2006-2007シーズンには背番号を”8″からかねて希望していた”24″に変更。”33″も着けたかったというが、カリーム・アブドゥル・ジャバーの永久欠番はさすがに空けてはもらえなかった。

シドニー五輪は結婚で辞退し、アテネ五輪はレイプ騒動でケチがついてお呼びがかからなかったコービーだったが、2008年の北京でようやくドリームチームの一員に加えられ、前評判どおり金メダルを獲得。これ以降コービーは中国ではヤオ・ミンに勝るとも劣らない人気選手として、当地のバスケット熱に一方ならない貢献をしている。

シーズンもボストン・セルティックスに敗れたものの久々のファイナル進出を果たした。実は2月に指を怪我していたのだ、手術での戦線離脱を嫌ってコービーはシーズン後まで無理やり手術を遅らせた。そういう男なのだ。このシーズン悲願のMVPを受賞している。

雪辱に燃える2008-2009シーズン、オールスターでは結果としてこれが最後の選出となる因縁のシャックとMVPをダブル受賞。またも指を痛めたもののまたしても強行出場を続け、シーズン65勝の快進撃でファイナルに再びコマを進め、オーランド・マジックを破って7年ぶりのリングを手に入れた。

翌シーズンもファイナルを制覇して、指一杯の5個目のリングを獲得。オフには3年8700万ドルという天文学的契約を結んでいる。

しかし、翌シーズンにはファウルを取られた腹いせにレフリーのベニー・アダムズに”Faggot”(ゲイを侮蔑するスラング)という最悪の悪態をつき、10万ドルもの罰金を科されている。この一件でスポンサーが多数離れたというから口は災いの元だ。

その後はロンドン五輪で2個目の金メダルを獲得したものの、2012-2013シーズンはかつての憧れである新HCのマイク・ダントーニの元チームは27勝という酷い物に終わり、コービーは徐々に怪我がちになって成績を落としていく。

悪役とは往生際が肝であるが、それを悟ってかコービーは2015-2016シーズンを前にこのシーズンを最後に引退することを表明した。

他のチームのファンに特別な事をしないでくれとコービーは釘を刺した。ヒールとして終わりたかったのだ。しかし、ファンはその願いを守らなかった。行く先々で相手チームのファンに大歓声で迎えられたのだ。

あるいは大嫌いなコービーへの仕返しのつもりだったのかもしれないが、いずれにしてもコービーの存在はあまりに大きかった。17勝という目を覆わんばかりの悲惨なラストシーズン以来、レイカーズは長くプレーオフにさえ出られない暗黒時代に入った。

トレードビジネスといわれるNBAの世界にありながら20シーズンをレイカーズ一筋に過ごし、積み重ねた33643得点は歴代4位、オールスターMVP5回、オールディフェンシブチームに選ばれること9回はいずれも歴代最多タイ。背番号”8″と”24″は両方が永久欠番となる史上初の快挙も得た。

引退後も妻と4人の娘に囲まれて相変わらずのスターぶりを見せていたが、2020年1月26日、次女と友人達と一緒にヘリコプターで移動中、墜落事故であまりにあっけなく命を落とした。信じたくないが、人の一生とはあまりに儚い。

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