レオン・ウッド Leon Wood ~#40~

ブログ存続のための寄付を募集しております

Leon Wood (レオン・ウッド)
(1962-)
Basketballer
Position: Point Guard/Shooting Guard
Collage:Cal State Fullerton
Height:190cm Weight:83kg
Stuts

カリフォルニアのハイスクールからアリゾナ大に進んだウッドだったが、さしたる活躍を見せることはできず、1年でカリフォルニア州立大フラートン校へと転校した。

フラートン校は無名校で、転校前年のシーズンは4勝23敗という散々の成績であったのだが、ウッドは加入と同時にスターターになり、平均19.7得点、7.4アシスト、1.3スティールの大活躍でオールカンファレンスに選ばれ、チーム成績も一気に18勝14敗に持ち直した。

その後もチームの大黒柱として縦横無尽の活躍を見せ、1983年のパンアメリカンゲームの代表に選ばれて見事金メダルを獲得。

更にロサンゼルスオリンピックの代表候補となり、同じく無名校で抜群のパフォーマンスを見せていた白人選手と代表の座を争い、少しだけ長身であったのが決め手になってウッドは勝利した。白人選手の名はジョン・ストックトンであった。

代表にはジョーダンも居ればユーイングも居た。チームは道中敵なしで勝ち進み、全勝で金メダルを獲得。ウッドも平均7.9アシストを記録してチームのアシスト王に輝いた。

ただし、ロサンゼルスオリンピックにはソ連が出場していなかった。アマチュアだけでアメリカが世界一であれた最後のひと時でもあったのだ。

同年はオールアメリカンの2ndチームにも選ばれ、全体10位でフィラデルフィア・76ersが指名。入団交渉で揉めたものの、天下の金メダリスト、ウッドはNBAのコートに堂々足を踏み入れたのだった。因みにストックトンは全体16位指名。それもサプライズとして受け取られた。

が、プロでは明暗が一転した。ストックトンの活躍について今更説明は要らないだろうが、ウッドはと言うとまるで活躍できなかった。スリーポイントやパスに流石のセンスをのぞかせることがあったが、NBAのキャリアは控えに終始した。

2年目の1985-1986シーズン途中にワシントン・ブレッツにトレードされると、以後はニュージャージー・ネッツ、サンアントニオ・スパーズ、アトランタ・ホークスとチームを転々とし、1988-1989シーズンはNBAでの契約がかなわずスペインとCBAでプレー。

翌シーズンはネッツに出戻り、続く1990-1991シーズンはサクラメント・キングスでプレー。その後は独立リーグやヨーロッパのチームを転々とした。金メダリストだけあってどこの国へ行っても人気絶大であったのだが、結局NBAへの復帰はかなわず、1994年にイタリアでキャリアを終えた。NBAでの出場は僅か274試合であった。

だが、ウッドの真のバスケット人生は選手引退後に始まった。なんと審判に転向したのだ。ハイスクールやカレッジで経験を積み、1996年にNBAの審判員に就任。NBAプレイヤーがNBAの審判に転向した例は今のところ3例しかなく、金メダリストは勿論ウッドだけだ。

以後現在に至るまで立派に袖番号”40″を付けて審判として勤め上げ、仕事の合間にはボランティアでバスケットクラブも運営している。ジョーダンでもストックトンでも、審判が居ないと困ることは請け合いだ。

コメント