シャリーフ・アブドゥル=ラヒーム Shareef Abdur-Rahim ~The Imam~

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Shareef Abdur-Rahim(シャリーフ・アブドゥル=ラヒーム)
(1976)
Basketballer
Position: Forward
Collage:California
Height:206cm Weight:102kg
Stats

NBAのマイナーリーグであるGリーグは近年急成長している。チーム数も、観客動員も、スポンサーも、勿論NBAへの昇格者も増える一方だ。Gリーグはそもそもゲーターレード・リーグの略称である。

この躍進の陰にはリーグ会長であるラヒームの尽力がある。彼は選手として苦労をし、NBAの舞台裏を知り尽くしている切れ者だ。

ラヒームはジョージアの敬虔なムスリムの家に12人兄弟の2人目に生まれた。兄弟の多くはバスケットボーラーになったが、ラヒームは特に才能があり、ハイスクールではチームを衆王者に導くとともに、ジョージアのミスターバスケットボールに選ばれている。しかもGPA3.5の秀才であった。

カリフォルニア大に進み、ルーキーイヤーからいきなり平均21.1得点というPAC-10カンファレンスのルーキーレコードを打ち立てるとともに、1年生として史上初のカンファレンスMVPを獲得。

1年でアーリーエントリーをして、1996年のドラフトでアレン・アイバーソン、マーカス・キャンピーに次ぐ3位指名でバンクーバー・グリズリーズに指名された。チームメイトには後にプロフットボール殿堂入りを果たすTEトニー・ゴンザレスが居た。

ルーキーイヤーからスターターとして起用され、平均18.7得点、6.9リバウンドを記録。オールルーキー1stに選ばれ、創設間もないグリズリーズの看板として華々しくキャリアをスタートさせた。

だが、グリズリーズはエキスパンションチームなのでどうしようもなく弱かった。ラヒームはインサイドからでもアウトサイドからでも得点でき、ディフェンスもフリースローも標準以上にこなす万能選手ではあったが、一人でチームの成績をどうこうできるほどバスケットは甘くない。

ラヒームは毎年チームの得点王で、シドニー五輪に出場して金メダルを獲得する栄誉も得たが、結局グリズリーズはドアマットチームから抜け出すことはできず、ラヒームは2001年1月27日、ジャマール・ティンズレイと共にパウ・ガゾル、ローレンゼン・ライト、ブレビン・ナイトとの交換でアトランタ・ホークスにトレードされた。

ホークスではジェイソン・テリーとの二枚看板として期待され、何よりラヒームはジョージア出身ということもあって人気を獲得。移籍初年から平均21.2得点、9.0リバウンドの活躍でオールスターに初選出された。

しかし、ホークスもまた弱かった。テリーとのコンビはチームのかけがえのない得点源であり、史上6番目の若さで10000得点を達成する快挙もあったが、それでもプレーオフへの出場さえ叶わぬ状態が続き、結局2004年2月9日に今度はポートランド・トレイルブレイザーズへトレードされた。

ブレイザーズはプレーオフにずっと出場していたのだが、あろうことかラヒームの移籍と同時に出場が途絶えた。おまけにラヒーム自身も右ひざを痛めて成績を落とし、2004-2005シーズンをもって契約切れとなってしまう。。

その後はニュージャージー・ネッツへの移籍がほぼ決まったが、メディカルチェックで右ひざの傷をとがめられて破談になり、結局思い出のカリフォルニアのサクラメント・キングスに拾われた。

キングスでは控えに回ることも増えたが、ついにラヒームはプレーオフに出場することが叶った。ルーキーイヤーから9シーズン出場ができなかったというのはNBAレコードである。しかし、駄目選手では9年NBAに居続けることはできない。これもまた立派な大記録だ。

その後は傷の悪化もあって成績は下降線を辿り、2007-2008シーズンはわずか6試合しか出場できず、シーズン終了後に現役を引退した。華々しい活躍の一方で苦難に満ちた選手人生であった。

しかし、引退後のラヒームはエリートコースを歩んでいる。引退発表から1週間後には早くもキングスのコーチに就任。更にGM補佐を経てNBAの運営部門に迎えられ、その傍らで大学へ戻って学位を取得し、USCでMBAも取得。裏方としての豊富な実績が買われ、ついには2018年からGリーグの会長に就任した。

しかも息子のシャブリはハイスクールでは指折りのプロスペクトとして将来を嘱望されている。アラーのお導きか、人生はどこかでバランスがとれるようになっているのだろう。

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