ルイジアナ州立大 Louisiana State Tigers 前篇 ~夜の王者~

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カレッジフットボール風土記 第1回 ルイジアナ州立大 Louisiana State Tigers
・前篇(2月1日投下予定)
・中篇(2月11日投下予定)
・後篇(2月21日投下予定)

ルイジアナ州立大フットボールチームの歴史は、1893年に同大の教授で、かつてジョン・ホプキンス大でフットボールをプレーしたチャールズ・コーツ博士が音頭を取り、学生を集めてチームを作ったことに始まる。

最初はグリーンのジャージをと考えていたのだが、生地が生憎売り切れで、ニューオーリンズ名物のマルティグラ(謝肉祭)のイメージカラーである紫と金のジャージに決まった。これが現在までチームのイメージカラーとして受け継がれている。

初試合はニューオーリンズの野球場で1500人の観客を集めて行われ、チュレーン大を相手に34-0の完敗であった。ちなみにこの試合でQBを務めたラフィン・プレザントは後にルイジアナ州知事になる。そしてこれ以来チュレーン大とルイジアナ州立大は長きに渡るライバル関係となり、1940年には優勝旗が作られ、”Battle for the Rag”の名で対戦はルイジアナの名物となった。

当時のフットボールはラグビーに近いルールであったと言うが、以後順調にチームは強化され、1896年には6戦全勝という成績を残し、サザン・インターカレッジ・アスレチック・アソシエーション(SIAA)の王者になっている。

ライバルの急成長にチュレーン大は策に窮して元ペンシルバニア大を卒業したばかりで後にカレッジフットボール殿堂入りを果たしたジョージ・ブルックをチームに紛れ込ませるという奇策に出ている。これが審判に咎められて問題となり、没収試合となって結局ルイジアナ州立大が勝利を収めている。

タイガースという現在に続くニックネームはこの頃付いた。南軍の精鋭部隊として名を轟かせ、”Fighting Tiger”の異名を取った第9ルイジアナ歩兵連隊にあやかったものだ。しかしタイガースの船出は多難なもので、1897年、1898年シーズンはアメリカ南部で黄熱病が流行してフットボールどころではなく、2年でわずか3試合のプレーにとどまっている。

その影響もあって一時チームは弱体化したが、1902年には再びSIAAを制覇し、1907年にはカレッジフットボール史上初のキューバへの海外遠征を敢行。”バカルディボウル”と銘打ってクリスマスにバハマ大と対戦し、56-0で勝利を収めている。

1908年には10戦全勝で全米王者のタイトルを獲得。”ブロンドのテロリスト”と呼ばれたQBドク・フェイトンは当時の新記録となる132点を稼ぎ、フェイクハンドオフをして他の選手にボールを渡し、そのままリードブロックに回る”tackle over tackle”と呼ばれるプレーで一躍有名になった。

他にも優秀なメンバーをそろえて黄金時代を謳歌したタイガースだったが、カレッジスポーツの宿命で彼らは卒業していき、1910年は1勝5敗という悲惨なシーズンを送ることになる。

しかし、翌シーズンジェームス・ダイアーHCが就任するとチームは再建に成功する。特にGトム・ダットンの股の間をBローレンス・デュポンがボールを持って潜り抜ける”カンガルー”と呼ばれるトリックプレーがはまりにはまった。文章にすると馬鹿馬鹿しいが、短い距離を進めたいときには最も確実で効果的なプレーであったという。

しかし、かつての強豪の地位を取り戻す程の効力はなく、チームは中堅の位置に甘んじながら長年過ごすことになる。1918年には第一次世界大戦の影響でそもそもチームが作られなかった。

1923年からはカンファレンスの改編とともにサザン・カンファレンスに移り、長年オーバーン大の指揮を取ったマイク・ドナヒューHCを迎えたが、今一つパッとしない状況を変えることはできなかった。

そんな中でも明るいニュースがあった。1924年にはタイガースタジアムが完成し、1931年には名物となるナイターゲームが始まったのだ。暑さと周辺の大学の試合とのバッティングを避けるための措置であったが、これが大当たりして観客動員が大幅に増えたばかりか、ナイターに不慣れな相手チームが戸惑うという副産物も生まれた。以来ナイターはタイガースの名物となっている。

翌1932年にビフ・ジョーンズがHCに就任するとチームも一気に上向きカンファレンス制覇を達成。翌シーズンからサウスイースタンカンファレンスに移り、チーム再建に尽くすかと思われたが、1934年シーズンに事件が起きる。

ルイジアナ選出のヒューイ・P・ロング上院議員は大のタイガース贔屓で、観戦に訪れたある試合でチームが勝ちきれないのに怒りだし、ハーフタイムにチームに激を入れるべくスピーチをしようとした。これをジョーンズが制止したため二人は大げんかになり、そのままジョーンズは辞任してしまった。

後を引き継いだのがバーニー・ムーアHCだったのはそれでも幸運だった。タイガース初のオールアメリカンプレイヤーとなったEゲイネル・ティンスリーを擁し、チームは2年連続で全米王者となる黄金時代を築いたのだ。

1937年にはライバルフロリダ大との対戦が始まり、1943年には多くの選手が兵役でチームを離れる中、後にプロフットボール殿堂入りを果たすRBスティーブ・ヴァン・ビューレンの活躍もあってオレンジボウルを制覇。これがチーム初の本格的なボウルゲーム制覇であった。

1946年はプロ殿堂入りQBのY.A.ティトルを筆頭にメンバーが揃い、9勝9敗1分の成績でアーカンソー大とのコットンボウルに進出したのだが、この試合は吹雪になり、ファンがスタンドで焚火をし、サイドラインにも火を炊いたドラム缶が並べられる異常な環境下で行われ、結局スコアレスドローになった。

1947年を持ってムーアは退任。後任はプロの世界に入って30年代のオールディケードチームに選ばれる活躍を見せ、アシスタントコーチとして大学に戻っていたティンスリーであった。

そして輝ける50年代が半ばになり、1955年にポール・ディーツェルがHCに就任すると、タイガースもまた輝ける黄金時代へと入るのだった。

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