ビリー・キャノン Billy Cannon ~The Legend~

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Billy Cannon (ビリー・キャノン)
(1937-2018)
American Footballer
Position:Running Back / Full Back / Tight End
Collage: Louisiana State
Height:185cm Weight:93kg
Relatives:
Billy Cannon .Jr (ビリー・キャノン・ジュニア)(息子)

Stats

2019年シーズンはルイジアナ州立大のジム・バーロウがハイズマン賞を受賞した。意外だが同大2人目の受賞であるという。最初の受賞者は1959年のビリー・キャノンまでさかのぼるのだ。

キャノンのフットボーラーとしての評判はハイスクール時代から際立っていた。オールアメリカンに選ばれるとともに、バスケットと陸上でも活躍。しかし素行が悪く、最終学年の夏休みにポン引きに恐喝をはたらくという学生にあるまじき犯罪で逮捕されている。つまりキャノンは頭も良かったのだ。

各地の大学から奨学金の申し出が殺到したが、母親が地元の大学を望んだのと、オフシーズンのアルバイトの斡旋が決め手となり、1956年にルイジアナ州立大へ進学。アルバイトの口がこれほどの選手の勧誘に効力を発揮したのが時代を感じる話だ。

当時は新入生は試合に出場できない規定があったので、2年目の1957年シーズンから試合に出場。最初こそ後にプロフットボール殿堂入りを果たすFBジム・テイラーの陰に隠れて目立たなかったが、たちまちのうちに驚異の俊足で頭角を現し、当時としては出色の583ヤードを走って一気に売り出した。また、当時は選手交代が今ほど自由にできなかったため、DBやリターナー、キッカーにパンターもこなしている。

翌シーズン、ポール・ディーツェルHCは選手に出場機会と休息を与えるべく画期的なスリープラトンシステムを考案。主力の”White Team”に控えオフェンスの”Go Team”、同じく控えディフェンスで社会現象を起こす人気を呼んだ”Chinese Bandits”の3つにチームを分けた。

ディーツェルHCのコーチ人生で最高の選手であったキャノンは当然”White Team”に組み込まれ、控え選手たちの後押しもあって成績を大きく伸ばし、いずれもサウスイースタンカンファレンスのトップとなる686ヤード、10TDを走った。

このシステムで特に守備に力を増したチームは10戦全勝でシーズンを終え、シュガーボウルでクレムゾン大学と対戦。キャノン自らTDを決めてエクストラポイントを蹴った7点を守りきり、7-0でこの試合も制し、全米王者の称号を勝ち取った。

ハロウィンに行われたミシシッピ大戦は伝説になった。試合はミシシッピ大がFGで3点を入れたきり膠着状態で進み、第4Qで自陣11ヤード地点のサイドラインギリギリに蹴られたパントをキャノンは捕った。

キャノンは次々とタックルをかいくぐり、なんと7人を抜いて30ヤードを超えたところで独走態勢になり、そのまま98ヤードのPRTDを決めた。その後ミシシッピ大は反撃してエンドゾーンまで1ヤードまで攻め込んだが、4th&1ヤードからのラストプレーをキャノン自らタックルして阻止。18秒を残して劇的勝利を収めたものの、キャノンは疲労のあまりフィールドに倒れ込み、ロッカールームへ戻ることさえできなかった。

続くテネシー大戦で敗れ、連勝は18で止まり、シュガーボウルも宿敵ミシシッピ大に敗れたものの、この”Halloween Run”が効いてキャノンはこの歳のハイズマン賞を受賞。ニクソン大統領からは「君はアトミックキャノンだ」と危ないねぎらいの言葉を掛けられている。

当時はNFLとAFLが並立していて、この年のドラフトではNFLのロサンゼルス・ラムズとAFLのヒューストン・オイラーズが両方キャノンを全体1位で指名した。

キャノンは最初ラムズと3年3万ドルに契約ボーナス1万ドルという条件で契約したのだが、オイラーズは負けじと3年99000ドルに契約ボーナス1万ドル、更にキャノンの父親にキャデラック1台という契約を提示し、キャノンはこれにサイン。法廷闘争になったものの結局オイラーズが勝利し、キャノンはフットボール史上初の10万ドルプレイヤーとなった。

ルー・リムクスHCと確執を作り、あまりの高額年俸から相手チームの選手から目の敵にされたものの、ルーキーイヤーからランで644ヤード1TD、レシーブで187ヤード5TDという成績を残し、チームのAFL優勝に貢献。

更に翌シーズンはリムクスHCの更迭で奮起し、948ヤードを走ってリーディングラッシャーとなるとともにランで6TD、レシーブで9TDを挙げる大活躍でチーム連覇の原動力となるとともに、オールスターとオールプロに選出された。ニューヨーク・タイタンズ戦では当時のプロ記録である373ヤードを獲得するとともに、5TDを荒稼ぎしている。

しかし、1963年に怪我をして成績を落とすと、扱いづらい性格のキャノンは嫌われてシーズン終了後にオークランド・レイダーズにトレード。アル・デイビスHCの肝煎りでFBにコンバートされ、8TDを記録して復活を果たした。

しかし、翌シーズンはチーム事情でなんとTEにコンバートされた。今では考えられないことだが、白人RBが時代遅れになりつつあったこの時代はこういうコンバートはままあったのだ。しかし、せっかくコンバートしたというのに当時のレイダーズはTEをほとんど使わないチームで、わずか7レシーブという屈辱のシーズンとなった。

しかし、翌シーズンからジョン・ラウチHCが就任すると一転キープレイヤーとして重用され、1967年には10TDを記録してオールプロに返り咲き、NFLのグリーンベイ・パッカーズとのチャンピオンシップゲーム進出に貢献している。ちなみに翌シーズンからこのチャンピオンシップはスーパーボウルと名が変わり、ジョー・ネイマスが予告勝利を飾る。

しかし、1969年に就任したジョン・マッデンHCに気に入られず、プロボウルに選ばれたにもかかわらずこのシーズン限りで解雇。引退後に歯医者になるべくオフを利用して大学院に通っていたキャノンはフットボールに見切りをつけた。

ところが本格的に歯医者になる勉強を始めようとした矢先、カンザスシティ・チーフスから電話で復帰の誘いを貰い、結局1970年はチーフスで控えとしてプレー。これで本当に現役を引退した。

その後キャノンは本当に歯医者を開業して一見安定した第2の人生を送っていたのだが、不動産取引とギャンブルで借金を作り、1983年には切羽詰ってなんと偽札作りに加担。600万ドルを作ったまでは良かったのだが逮捕され、刑務所で過ごすことになった。

その間に息子のLBビリー・キャノン・ジュニアが1984年に全体24位でダラス・カウボーイズに指名されたものの、故障で1シーズンで引退を余儀なくされるなど、キャノンにとって人生最悪の時期であったが、出所後に風向きが変わる。

当時のルイジアナの刑務所の医療事情は医者にとっても患者にとってもおぞましい物で、医者のなり手がそもそも居ないような有様であった。キャノンは1986年に出所すると歯医者としてのブランクを取り戻すべく修行をし、1995年にこの仕事を引き受けた。

キャノンは囚人の立場も身を持って知っている稀有な医者であった。この経験を活かして立派に務めたばかりか刑務所の医療システムを抜本から改革。キャノンは歯科のみならずルイジアナの刑務所医療全体を統括するに至り、囚人の医療事情は劇的に向上した。

以後最晩年に至るまでキャノンはかつて”世話”になった刑務所で患者の治療を続けた。囚人たちは伝説のフットボーラーであり、自分を救ってくれるキャノンを”Legend”と呼んで尊敬したという。

2018年3月20日、80歳でキャノンは本当の”伝説”になった。タイガーススタジアムには銅像が建てられ、ホームゲームに先立って”Halloween Run”の映像がスクリーンで流されるのが恒例となっている。背番号”20″は勿論永久欠番である。

https://twitter.com/ESPNCFB/status/1206054326688464896

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