ブレット・ファーヴ Brett Favre ~鉄人~

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Brett Favre (ブレット・ファーヴ)
(1969-)
American Footballer
Position:Quarter Back
Collage: Southern Mississippi
Height:188cm Weight:100kg

Stats

ファーヴの両親は教師で、父親はハイスクールでコーチをしていた。果たして子供の頃からずば抜けた強肩の持ち主だったファーヴも父親のチームで選手になったのだが、当時のチームはラン中心で、あまりパスを投げる機会に恵まれなかった。

地元のサザンミシシッピ大に進んだが、そういうわけで評価はあまり高くなく、DBへのコンバートを打診されたが、ファーヴはQBに拘ってこれを拒絶。9番手のQBとしてカレッジのキャリアをスタートさせた。

しかし、そこはファーブなのでめきめきと頭角を現し、1年目の3試合目から先発に昇格。同大のパスの記録を軒並み塗り替えている。

サザンミシシッピ大はFBS所属の弱小校だが、3年時には全米6位のフロリダ州立大相手に大金星を挙げ、同シーズンは7年ぶりのボウルゲームにチームを導き、インディペンデンスボウルでテキサス大エルパソ校相手に勝利を収めている。

しかし、最終学年のシーズン前には交通事故を起こして80センチも腸を切除する大けがを負っている。医者に掛けた最初の言葉は、「またフットボールができるか?」であったという。ファーヴの勝負への執念は天性のものであった。

そしてその執念でファーヴは戦列に復帰し、1991年には全体33位でアトランタ・ファルコンズに指名された。グリーンベイ・パッカーズはファーヴを高く買っていたが、この年のドラフトでは1巡目指名権がなく、ファルコンズに先を越されてしまった。

しかし、当時のファーヴは酒と鎮痛剤に溺れる日々で、二日酔いで練習に表れて嘔吐するような有様であった。ジェリー・グランビルHCからは「飛行機事故でもない限り先発させない」と酷評されている。

このシーズンファルコンズの先発QBクリス・ミラーはプロボウルに選ばれる活躍を見せ、ファーヴは三番手で過ごし、飛行機事故も勿論起きなかった。このままではファーヴは腐って惨めな人生を送る羽目になるのは明白であった。

しかし、シーズン終了後にファーヴをあきらめ切れないパッカーズのロン・ウルフGMは1巡目指名権とのトレードでファーヴを獲得。当時のパッカーズはドン・マコウスキーが居てQBに特に困っておらず、しかもファーヴはメディカルチェックで股関節の欠陥が壊死しているのが発見されたが、それでもウルフはこのトレードを強行した。

ウルフの慧眼はグリーンベイ市長から表彰を貰ってもいい大当たりであった。マコウスキーはシーズン序盤で負傷してしまい、先発に昇格したファーヴは持ち前の才能を開花させ、チーム記録の6連勝を記録し、チーム3年ぶりの勝ち越しを達成。プロボウルに選出された。

当時のパッカーズはビンス・ロンバルディHC時代の黄金時代は見る影もないほど弱く、ラインも脆弱だったが、ファーヴは地獄を見て鍛えたメンタルと天性の強肩とパスセンスで強引に道を切り開いた。翌シーズンは11年ぶりのプレーオフにチームを導き、5年1900慢ドルの契約を獲得した。

1994年シーズンは相棒のWRスターリング・シャープが負傷で再起不能になる悲劇もあったが、ファーヴは必ずしも一人のターゲットに拘らない。チームはファーヴの腕一本で黄金時代を築き上げる。

1995年にはリーグトップの4413ヤード、38TDを投げ、リーディングパサーのタイトルを獲得し、MVPも獲得。以来史上唯一の3年連続のMVPに選ばれる快挙を成し遂げた。

1996年には悲願のスーパーボウル制覇を達成。更にニュースキャスターの妻を迎え、翌シーズンもスーパーボウルに進出したが、ジョン・エルウェイと奇しくもスターリングの弟のTEシャノン・シャープに率いられたデンバー・ブロンコスに敗れた。

1998年には2度目のリードパサーとなり、ホーム29連勝というファンが大喜びする新記録を達成。2000年シーズン終了後には10年1億ドルという巨額の契約を結んだ。

2001年には物議を呼ぶ事件があった。ニューヨーク・ジャイアンツのDEマイケル・ストレイハンのNFLレコードとなるシーズン22.5サック目を食らったのだ。無論ストレイハンの力に疑う余地などないが、ファーヴにしてはやけに簡単に倒れたように見えた。

タックルを食らいながら力づくでパスを投げて通すのがファーヴだ。ストレイハンの名誉ある記録の為にわざと倒れたという疑惑が出たのだ。しかし、こんなことを言われるのはファーヴの実力が認められている裏返しに他ならない。

列挙するのが面倒なほどの記録を打ち立て続けるファーヴだったが、この頃には一つの悪評が付きまとうようになった。プレーオフで勝てないというのだ。歴史的なスーパーQBにはありがちな話だ。ファーヴの存在感があまりに大きすぎてチーム全体の底上げを妨げてしまうのだ。

2003年シーズンはあまりに不幸な出来事があった。12月に師でもある父親が脳腫瘍で世を去ったのだ。ファーヴは葬式を遅らせてオークランド・レイダーズ戦に臨んだ。

しかし、ファーヴはQBレーティング158.3という驚異的な活躍でこの試合を制した。アメリカ一凶暴なレイダーズファンさえもファーヴの奮闘を意気に感じてスタンディングオベーションを送った。

翌シーズンはもっと酷かった。義理の兄を交通事故で無くし、妻が乳がんに侵された。自身もジャイアンツ戦でタックルを食らって脳震盪を起こして途中退場した。しかし、医者の止めるのも聞かずに途中復帰して試合を続けた。TDを投げたが、その記憶が抜け落ちるほどの重傷であった。いまではファーヴは後遺症に悩まされている。

2005年はシーズン開幕前にカトリーナで家が被災。連続出場記録は途切れさせなかったがチームは4勝12敗で14年ぶりの負け越しという屈辱を味わい、ファーヴはだんだんとケガにむしばまれていく。

2006年は史上初のパス50000ヤードを達成。2007年にはダン・マリーノ超えの420TD、エルウェイ超えの149勝を達成。更にペイトン・マニング、トム・ブレイディに次ぐ史上3人目の31チームからの勝利を達成。プロボウルに選ばれたが、足首のけがで出場できなかった。

アーロン・ロジャースの台頭もあり、もはやグリーンベイに居場所のないのを悟ったファーヴはこの後涙ながらに引退を表明。しかし、タンパベイ・バッカニアーズとニューヨーク・ジェッツから熱烈なオファーが届き、ジェッツでの復帰を決断。

ジェッツではアリゾナ・カージナルス戦で6TDを投げる大活躍を見せるなど。復活の兆しを見せた。カロライナ・パンサーズ戦ではヴィニー・テスタバーディとの高齢QB同士の対決が実現して”シニア・ボウル”と呼ばれてカルトな話題を呼ぶなど相変わらずの存在感だったが、シーズン後半の5試合を4敗と失速。結局1シーズン限りでジェッツを去ることになった。

翌シーズンはミネソタ・バイキングスと契約。古巣のパッカーズとの対戦を制して32チームからの勝利という金字塔を打ち立て、12勝4敗という好調なシーズンを過ごしたが、翌シーズン限りで本当の引退を表明した。

ラストシーズンは前人未到の500TDと70000ヤードの大記録を達成したが、12月20日のシカゴ・ベアーズ戦でコーリー・ウートンのタックルを食らいダウン。連続出場記録は297で止まった。

結局これがラストゲームとなり、鉄人もついにフィールドを去った。一時代が終わった瞬間であった。

2013年はセントルイス・ラムズから現役復帰のオファーがあったものの断り、ステーキハウスの経営と解説者をしながら第二の人生を穏やかに過ごしている。2016年には殿堂入りを果たしている。

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