ダン・ファウツ Dan Fouts ~仲間と一緒に~

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Dan Fouts(ダン・ファウツ)
(1951-)
American Footballer
Position:Quarter back
Collage:Oregon
Height:190cm Weight:92kg
Stats

フットボールは何をやるにも一人ではどうにもならないところがある。あなたのチームにブレイディが助っ人で来てくれたところで、関大と対戦して勝てるだろうか?

往年のカレッジのスターでサンフランシスコ・49ersの解説者を務める父ボブの元サンフランシスコに生まれただダン・ファウツは、そういう意味では最高に仲間に恵まれたフットボール人生を送ったと言える。

当時勝ち越しももままならない弱小だったオレゴン大に進んだが、後に4回もプロボウルに選ばれ、カレッジの殿堂入りを果たすWRアマド・ラシャド(当時はボビー・ムーアと名乗っていた)が居た。ファウツとのホットラインは当時の同大のパスに関するレコードを軒並み塗り替えている。

1973年にドラフト3巡目でサンディエゴ・チャージャーズが指名。下位指名ながら強肩を武器にルーキーイヤーから先発に座り、ロングパスに強みを見せていたが、当時のチャージャーズは弱く、勝ち星は伸びず、ファウツ自身の成績も平凡なものであった。

しかし、1976年にビル・ウォルシュがオフェンスコーディネーターに就任。結局ウォルシュはこのシーズン限りでチームを去って行くのだが、チャージャーズオフェンス陣は後の名将から色々な物を学び取った。

1978年にはドン・コリエルがHCに就任。コリエルの提唱するTEをメインターゲットにロングパスを多用するフットボールに、強肩でメンタルの強いファウツはまさにうってつけの存在であった。このシーズン、9勝5敗でプロ入り以来初の勝ち越しを経験している。

優秀なTEを欲したコリエルはシーズン終了後のドラフトでTEケレン・ウィンスローを指名。後に揃って殿堂入りする相棒を得たファウツは、水を得た勢いでパスを投げまくり、4082ヤードを投げてジョー・ネイマス以来二人目となる4000ヤードパサーとなり、プロボウルとオールプロに選ばれた。チームも地区優勝を達成し、実に14年ぶりにプレーオフへ進出。”エア・コリエル”の目指した革命的フットボールが体現された。

通算レシーブ数のレコードを作ったWRチャーリー・ジョイナー、RBとして初の1000ヤードレシーブを達成したライオネル・ジェームズ、1982年に1試合平均129ヤードのNFLレコードを樹立したWEウェス・チャンドラーら、ウィンスロー以外にもそうそうたるターゲットがチャージャーズには居た。彼らはエド・ホワイトやラス・ワシントンといったプロボウル級のラインマンに固められ、派手な空中戦でファンを熱狂させた。

主役のファウツはこの4000ヤードを機に4年連続でリーディングパサーになるという輝かしい活躍を見せる。1980年にはウィンスロー、チャンドラー、ジェームズの3人が一度に1000ヤードをレシーブするという史上初の快挙を達成。

1981年ののプレーオフは壮絶であった。マイアミ・ドルフィンズとアウェーで衝突した初戦は正月でありながら30度近い恐ろしい暑さの中で行われた。一旦は24-0と大幅リードを奪ったチャージャーズだったが、そこから激しい点の取り合いになってオーバータイムに突入。最後はFGでかろうじて勝利を拾った。最後には故障したウィンスローが仲間に両肩を抱えられて退場する姿は”Epic in Miami”の名でアメリカスポーツ史の伝説となったこの試合を象徴するシーンである。

問題はその次で、一気に北上してシンシナティで行われた試合は氷点下20度を下回る極寒の中で行われた。先週と一転して”Freezer Bowl”と呼ばれたこの試合をチャージャーズは落とし、スーパーボウルへの進出はかなわなかった。

1982年はストライキで短縮シーズンとなったものの、9試合で2883ヤードを投げ、1試合当たりの獲得ヤード320.3ヤードという当時としては驚異的な記録をマーク。この記録は2011年にドリュー・ブリーズが342.5ヤードを記録するまで30年近く破られなかった。

しかし、結局チャージャーズはスーパーボウルに出場できなかった。ディフェンスとランオフェンスに難があったのだ。輝かしいパスオフェンスもメンバーが少しずつ入れ替わって行くうちに弱体化し、ファウツの成績も徐々に下降線を辿って行く。最後にはチームも負け越すシーズンが出るほどになり、ファウツは1987年をもって現役を引退した。

通算のパス1回あたりの獲得ヤード6.88はネイマスの作った6.33という記録を塗り替える当時としては断トツのレコードであり、現在も歴代8位として名を連ねている。

引退後は父親の後を継いだというわけではあるまいが解説者として活躍。背番号14は大学とチャージャーズの永久欠番となり、1993年にはプロフットボール殿堂入りを果たしている。

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