ジョー・ネイマス Joe Namath ~Broadway Joe~

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Joe Namath ジョー・ネイマス)
(1943-)
American Footballer
Position:Quarter Back

Collage:Alabama
Height:188cm Weight:90kg

Stuts

ピッツバーグ郊外でハンガリー系の鉄鋼マンの息子に生まれたネイマスだったが、両親は早くに離婚して母親に育てられた。

ハイスクールではスポーツ万能のスーパースターとして大いに幅を利かせ、当時のハイスクールでは滅多に決められる選手はいなかったというダンクシュートを平然と決め、野球では各チームからオファーが殺到。ロベルト・クレメンテに憧れていたネイマスは地元のピッツバーグ・パイレーツと契約しようとしたのだが、大学教育を受けてほしいという母親たっての希望でフットボールで大学に進むことになった。

メリーランド大に行こうとしたのだが学業成績の問題で断念。名将ポール・ブライアント率いるアラバマ大に進んだのだが、皮肉なことに卒業したのは2007年の事であった。

黒人の多い地域で奔放に育ったネイマスにはブライアントの厳しい指導や南部の人種差別はカルチャーショックだったが、二年目には先発の座を掴み、三年間で29勝4敗という圧倒的な成績をマークし、最終学年の1964年には全米王者に輝いている。

衝突を危惧されたブライアントとの師弟関係も極めて良好で、ブライアントは「コーチ人生で最高の選手」とネイマスを讃え、ネイマスは「自分に誠実さを教えてくれた」とブライアントを慕っている。

だが決して順風満帆というわけではなく、4年目の4試合目に膝に大けがを負い、以後のネイマスのフットボール人生に影を落とすことになった。折しもアメリカはベトナム戦争の渦中にあったが、ネイマスは徴兵検査で兵役不適格と判定されたというからその傷の重さが窺える。

1964年のNFLドラフトでは全体12位でセントルイス・カージナルスが、AFLドラフトでは全体1位でニューヨーク・ジェッツが指名。膝を故障していたにもかかわらずこの順位で指名されるポテンシャルがネイマスにはあった。

まずネイマスはカージナルスと交渉し、年俸20万ドルとボーナスとしてリンカーンコンチネンタルを要求。カージナルスはこの破格の要求を呑んだものの、オレンジボウルの前に契約することを逆に要求した。契約してしまうとオレンジボウルには出場できない。

アラバマ大を愛していたネイマスはこの要求を拒絶し、オレンジボウルに出場した翌日にジェッツと3年契約で42万7000ドルというフットボール史上最高額の契約を結んだ。ド派手な入団劇に、代名詞となる”ブロードウェージョー”のニックネームがこの頃名づけられた。

ルーキーイヤーはマイク・タリアフェロとの併用だったが、2220ヤード、18TD、15INTを投げて新人王を獲得し、プロボウルにも選出。

翌シーズンからは完全に先発の座を掴み、リーグトップのパス232回成功で3379ヤードを獲得し、MVPを受賞。更に続く1967シーズンではプロフットボール史上初の4000ヤードパサーとなった。1979年にサンディエゴ・チャージャーズのダン・ファウツが達成するまで長らく唯一の記録であり、14試合制で達成したのはネイマスだけである。勿論このシーズンもMVPに選ばれた。

ネイマスの大活躍に引っ張られる形でチームの成績も徐々に上向き、1968年シーズンは11勝3敗の好成績でスーパーボウルに進出を果たした。

AFLは新興リーグであり、NFLに比べてレベルが低いとされていた。しかも相手のボルチモア・コルツはプロフットボール史上最強と目されており、下馬評はジェッツの圧倒的不利。ある記者は「これがネイマスのプロ初試合になる」とまで言い切った。

一連の報道にうんざりしていたネイマスは、試合の三日前にマイアミに記者を呼びつけ、プールサイドで女をはべらせながら「日曜日は俺達が勝つ」とあまりに有名な勝利宣言をぶち上げた。

かくして迎えた第3回スーパーボウルは強力ディフェンスを擁するコルツをネイマス率いるジェッツオフェンスが崩せるか、という構図になり、獲得ヤードは互角ながらも4INTでTDなしとパスオフェンスに粗さの目立ったコルツに対し、ネイマスはクラッチかつ堅実にゲームを進め、16-7でジェッツが勝利。バッファロー・ビルズのディフェンスの方がタフだったと軽口を叩くネイマスは生きながらに伝説になったのだった。

この劇的勝利には後日談がある。ネイマスがシーズン終了後、”バチェラーズIII”という人を食ったような屋号のナイトクラブを始めたのだ。各界の名士が集まって店は繁盛したが、1970年シーズンのリーグ合併を控えてイメージダウンを恐れたNFLのピート・ロゼールコミッショナーは閉店を要求した。

これに黙って応じるネイマスはもはやネイマスではない。記者会見を開き、涙ながらに選手引退を表明して抵抗した。これにはNFLも引き下がるしかなく、散々NFLをおちょくって満足したネイマスは店を手放して手打ちとなったのだった。

だが、栄光の陰でネイマスの膝は悪くなる一方で、リーグ合併以降も抜群のポテンシャルを持ちながらも欠場がちになっていく。

1972年シーズンはリーグトップの2816ヤード、19TDを獲得して5度目のプロボウルに選出。1974年にはカムバック賞を受賞したが、この頃にはハーフタイムの度に膝の水を抜いて後半戦に臨んでいたというのだから酷い有様だ。

1975年には3週目のニューイングランド・ペイトリオッツ戦を、たまたまアメリカを訪れていた天皇皇后夫妻が観戦。陛下にアメリカ土産をと思ったかは定かではないが、ネイマスは4TDを投げる大活躍で天覧フットボールを見事勝利で飾った。

陛下もネイマスの活躍が印象的だったようで、解説役のタック牧田氏に特に説明を求めたという。満身創痍でもネイマスはスーパースターであった。

しかし、この辺りがネイマスの最後の輝きであった。1976年シーズン終了後にとうとうウェーバーとなり、ロサンゼルス・ラムズに移籍。序盤は先発でプレーしていたものの、すぐそれもままならなくなり、とうとうこのシーズンを持って現役を引退した。

引退後はタレントとしてテレビ番組や映画に多数出演。離婚のショックでアルコール中毒に陥ったこともあったが、今でも日本のフットボール番組にも出演するなど、元気な姿を見せてくれている、

1985年には早くもプロフットボール殿堂入り。スピーチでは1983年に世を去ったブライアントを讃え、感動を呼んだ。背番号12はジェッツの永久欠番になっている。

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