キング・コーコラン King Corcoran ~poor man’s Joe Namath~

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King Corcoran (キング・コーコラン)
(1943-2009)
American Footballer
Position:Quarter Back

Collage:Maryland
Height:183cm Weight:90kg

Stats

ニュージャージーのアイルランド系カトリックの家に生まれたジェームス・コーコランだったが、トラック運転手の父親はコーコランが大学を出てしばらくして亡くなっている。母とは仲が悪く、2008年に葬儀には出席しなかったという。一方コーコランの葬儀にも親族は一人も出席しなかった。コーコランと腹違いの弟はYMCAの施設で育ったともいう。あるいは、この不幸な少年時代がコーコランという人間を決定づけたのかもしれない。

ハイスクールはフットボールで活躍。特に最終学年ではオールニュージャージーの2ndチームに選ばれたというから大したものだ。

チームの浮沈が決まる大一番のある試合で事件が起きた。試合開始前から雨が降り、両チームの選手は泥まみれになって前半を終えた。

ハーフタイムが終わって後半戦が始まるまさにその時、コーコランは新品のジャージにサングラスといういでたちに、ヘルメットを持ったマネージャーを引き連れてフィールドに表れた。

そのあまりの決まりぶりに観客の誰かがコーコランを「キング」と呼んだのを合図にスタンドに観客が雪崩れ込み、試合はしばし中断された。この日以来コーコランはジェームスという本名を捨て、キングと名乗り始めた。

出自がアイルランド系カトリックとあってノートルダム大から、更にマイアミ大とメリーランド大からもオファーが来た。マイアミ大の選手はパーティーのやり過ぎで、ノートルダム大の選手はパーティーをやらなさ過ぎる。その点メリーランド大は程が良いと、人を食ったような理由でコーコランはメリーランド大に進んだ。

当時のメリーランド大はあまり強いとは言えなかったが、最終学年となった1964年には昨年ハイズマン賞を受賞したあのロジャー・ストーバック率いる海軍士官学校を相手に29-27で勝利を収めている。

とコーコランは主張しているのだが、実際のスコアは27-22で、コーコランはこの試合に出場していない。実はコーコランはカレッジを通じてずっと控えQBだったのだ。

だが、コーコランは有名人だった。シャークスキンのスーツでばっちり決めてキャンパスを闊歩し、数多の女性と浮名を流し、PRエージェントを雇って一緒に旅行をしてと、とにかく目立ちまくった。

“poor man’s Joe Namath”(チャチなネイマス)という不名誉なニックネームが付いたのはこの頃だ。年齢と派手なパフォーマンスは本物のジョー・ネイマスと互角だったが、フットボールの才能にあまりに差があった。コーコランはドラフトで指名されることはなく、デンバー・ブロンコスのキャンプに2年続けて参加したものの、いずれもロースターに残れずカットされた。6人の女とベッドに居るところをコーチに捕まったこともあるというから、モテぶりはネイマス以上であったかもしれない。

フットボーラ―よりヒモの方が向いている気もするが、女以上にフットボールが好きだったと見えて、1967年にマイナーのACFLのウォーターブリー・オービッツと契約。プロになってからは派手さに磨きがかかり、「キングはバスに乗らない」と言ってチームバスに乗ることを拒絶し、電話とコピー機とバーカウンターと、勿論女も備え付けられた凄まじいリンカーンコンチネンタルで移動していたという。

翌シーズンはニューイングランド・ペイトリオッツ傘下のローウェル・ジャイアンツと契約。ペイトリオッツへの昇格の機会を得て2試合でプレー。パス7回を投げて3回成功、33ヤード獲得している。結局コーコランのメジャーでのプレーはこれだけであった。

この活躍が認められて翌シーズンからはフィラデルフィア・イーグルス傘下のポッツタウン・ファイヤーバーズと3年12万5000ドルで契約。後にNFLで長く活躍するTEボブ・タッカーやWRジャック・ドルビンをターゲットに大活躍し、リーグ連覇を達成。

1971年にはノーフォーク・ネプチューンズへ移籍し、これまたリーグを制して3連覇を達成。知る人ぞ知るカルトなスタートして唯一無二のポジションを確立した。

翌シーズンはカナダへ渡り、CFLのモントリオール・アルエッツと契約したが、3番手QBで出場機会はなく、これを不満としてセミプロのシーボードフットボールリーグのチェンバーズバーグ・カージナルスへ移籍。またもリーグ制覇。

1974年にはNFLに対抗して創設されたWFLのフィラデルフィア・ベルと契約。リーグ最多の31TDを記録し、チームのプレーオフ進出に貢献。ちなみにパスターゲットには後にイーグルスでSTキャプテンに就任するビンス・パパーリがいた。

1975年のWFL崩壊を持って現役を引退。その後はポロに挑戦したり、エンゲルベルト・フンパーディンクと一緒にラスベガスのショーに出たり、詐欺まがいの事業をして脱税で収監されたりと不可解な行動を繰り返し、晩年は友人の元を渡り歩いて面倒を見てもらいながら生計を立てていたという。

2009年に死去。自身の成績は華々しい物ではなかったが、不思議と在籍したチームは強くなった。奇妙なカリスマがそうさせたのかもしれない。

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