ダグ・ベントレー Doug Bentley ~Melody Lane~

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Doug Bentley (ダグ・ベントレー)
(1916-1972)
Hockey player
Position:Winger
Shot:Left
Height:173cm Weight:65kg

Stats
Relatives:
Max Bentley (マックス・ベントレー)(弟)

ダグの父親のビルはヨークシャーからの移民で、スピードスケートのチャンピオンでもあり、サスカチェワンで農業を起こして成功し、市長まで務めた名士であった。

男6人女7人の大家族に五男として1916年に生を受けたダグ以下、兄弟たちは皆アスリートとなり、父が建設に尽力したスケートリンクでホッケーを学んだ。

兄弟は皆小さく、とりわけダグは体重60キロ台の小兵で、当時の今以上に荒っぽいプレーの多いホッケーには不向きであったが、ビルは自分のスケーティングスピードは息子たちにも遺伝していると信じ、敢えて狭いリンクでプレーさせることでクイックネスを身に就けさせた。

やがて兄弟たちはセミプロ選手として夏は野球、冬はホッケーをプレーする生活を始めた。6兄弟全員がNHLでプレーできる素質があったとダグは信じていたが、選手としての活動の傍ら手広く拡大された家業を手伝う必要があり、兄弟たちはプロへの道を踏み出す踏ん切りが付けられなかった。

しかし、ダグは身体は小さいが野心は大きく、1937年にはトロント・メープルリーフスのキャンプに同郷で後に殿堂入りを果たすエルマー・ラックと共に参加したが、あまりの小兵ぶりに二人とも契約を断られている。「大きい奴を頼んだのにピーナッツが来た」というコーン・スマイスHCの辛らつな言葉が残っている。

その後ボストン・ブルーインズのキャンプにも参加したが、アート・ロスHCから「今回参加したアマチュアの中で最低」と酷評されてしまう。しかし、ダグは家が始めたガソリンスタンドを手伝いながらセミプロで機会を待った。

そうして1939-1940年、シカゴ・ブラックホークスと契約するや39試合で17ポイントを獲得。スマイスとロスの鼻を明かしてみせた。

翌シーズンには弟のマックスもチームに加入。兄弟二人三脚でチームを引っ張り続けた。1942-1943シーズンには50試合で73ポイントを稼いで1929-1930シーズンにクーニー・レイランドが打ち立てたNHL記録に並び、オールNHL1stに選出された。

この頃から戦争が激しくなり、客も選手も兵隊にとられてしまう中、ダグとマックスはチームと掛け合って兄のレグをチームに加入させた。レグはこのシーズンを最後に出征してチームを去るが、史上初の三兄弟ラインは大きな話題となった。

しかし、戦争はいよいよのっぴきならない状況となり、カナダ人のレグはアメリカへの入国が叶わなくなり、1944-1945シーズンは実家に戻って家業とセミプロチームの生活に戻った。

戦争が終わった1945-1946シーズンからチームに復帰。ダグ、マックスの兄弟と同じく小で殿堂入りを果たすビル・モシエンコの三人組は”Pony Line”を結成。3人合わせて60試合で147ポイントを荒稼ぎし、センセーションを起こした。

1947年にはNHLオールスターゲームが開催。メープルリーフス対NHL選抜という形であったが、ポニーラインの三人はそろって出場。以後ダグは5年連続で選出される。

しかし、ブラックホークスは弱かった。オールスターの直後、チームは打開策としてマックスを5人の選手と交換にメープルリーフスに放出。ダグはショックで引退を考えたが、まだブラックホークスでやれることがあると覚悟を決め、現役を続行した。

しかし、小さな体は徐々に悪くなり、1951-1952シーズンに股関節を負傷したのを機にNHLを去り、セミプロでコーチ兼任選手としてプレーするようになった。

しかし、1953-1954シーズンにニューヨーク・レンジャーズに移籍したマックスから誘われてレンジャーズで1シーズンだけNHLで復帰し、20試合で12ポイントを稼ぎ、再びセミプロへと戻った。

以来自らリーグを運営するなど、マイナーの指導者として力を尽くし、1964年には殿堂入りを達成。1972年にガンで世を去った。

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