マイク・バーノン Mike Vernon ~ロワには負けられない~

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Mike Vernon (マイク・バーノン)
(1963-)
Hockey player
Position:Goaltender
Shot:Left
Height:175cm Weight:81kg

Stats

カルガリー生まれのバーノンは小柄ながらも目を見張る俊敏性と反射神経を高く評価され、1981年にドラフト3巡目で地元のカルガリー・フレームズに指名された。

1982-1983シーズンに一応デビューし、同年にはジュニア世界選手権に出場して銅メダルを獲得したものの、当時のフレームズはゴーリーの層が厚く、マイナーで長い下積みを続けることになる。

転機は1985-1986シーズンに起きた。3年に一度の恒例行事となっていたスーパーシリーズが行われ、ソ連からCSKAモスクワ、ディナモ・モスクワの2チームが北米を訪問。NHLのチームと対戦する運びになったのだ。

フレームズはディナモと対戦することになったが、ゴーリーの相次ぐ負傷もあり、選手の消耗を嫌って若手のバーノンを先発させた。するとバーノンは高いパフォーマンスを見せて4-3での勝利に貢献。これが買われてプレーオフはバーノンが先発することになった。

フレームズはファイナルまで勝ち進んだが、ルーキーながらバーノン以上のパフォーマンスを見せるGKパトリック・ロワ擁するモントリオール・カナディアンズの前に敗れた。以来バーノンとロワのライバル関係は始まった。

翌シーズンから先発に完全定着し、1987-1988シーズンにはキャリアハイで同期のグラント・フールに次ぐリーグ2位となる39勝をマーク。オールスターに初選出された。

続く1988-1989シーズンは最多勝となる37勝を挙げ、防御率はロワに次ぐ2位の2.66を記録。チームは54勝という圧倒的成績を残し、優勝の大本命としてプレーオフに進んだが、1stラウンドでバンクーバー・カナックスの前に思わぬ苦戦をすることになった。

決着は7戦目までもつれ込み、延長戦に突入。ゴール前でスタン・スミルと一対一になるピンチを迎えたが。バーノンは持ち前の反射神経を如何なく発揮してこれをセーブ。修羅場を切り抜けてカナックスを下したフレームズは、ファイナルでロワとカナディアンズ相手に雪辱を果たし、初優勝を達成した。

コーン・スマイス賞を受賞したアル・マニキスは、バーノンがスミルのシュートをセーブしたから自分たちはここに居ると言い切った。以来バーノンのスーパーセーブは”カップを獲得したセーブ”と称される伝説となった。

押しも押されぬスタープレイヤーとなったバーノンだったが、その一方でプレーにむらがあり、クラッチさに欠けるという悪評が付きまとった。そしてホッケーファンは負けた責任をゴーリーに押し付ける悪癖がある。バーノンはファンから嫌われるようなってしまう。

1991年には世界選手権の代表に選ばれたものの、先発試合でいずれも敗戦。これ以来株を落とし、ブーイングを浴びる存在になってしまった。両親をオールスターに招待するのをやめたというのだから深刻だ。

更に怪我もバーノンを苦しめ、1993-1994シーズンにはオールスターに選出されながら、怪我で事態を余儀なくされるという屈辱も味わった。更に若手のトレバー・キッドも台頭し、もはや先発に留まることが不可能と悟ったバーノンは、スティーブ・チアソンとの交換でかねてバーノン獲得を熱望していたデトロイト・レッドウィングスに移籍した。

レッドウィングスではマイク・オスグッドの手本として期待され、ロックアウトで48試合の短縮シーズンとなった1994-1995シーズンを19勝6敗という好成績で終え、33勝を挙げたチームのプレジデントカップ獲得に貢献。

そのままゴーディ・ハウの居た1966年以来となるファイナルまで危なげなく駒を進めたが、ニュージャージー・デビルズにスイープで敗れる屈辱を味わった。

翌シーズンはオスグッドとの併用が大当たりし、チームはNHL記録となる驚異の62勝をマーク。バーノンとオスグッドは最少失点ゴーリーに贈られるウィリアム・ジェニングス賞をダブル受賞したが、カンファレンスファイナルでコロラド・アバランチに敗れた。アバランチにはあろうことかロワが居た。

続く1995-1996シーズンもオスグッドと併用だったが、このシーズンバーノンは因縁のアバランチを相手に通算300勝を達成した。試合は荒れ模様になり、最後は両軍入り乱れての大乱闘になったが、バーノンはロワを殴りつけて流血させる完全勝利であった。

このシーズン、チームは38勝まで成績を落としたものの、バーノンは防御率1.76という完璧な守りを見せ、わずか4敗でファイナルを制覇。全責任を請け負って見事ゴールを守り切ったのを買われてコーン・スマイス賞を受賞した。

しかし、オスグッドの成長は顕著であり、おまけに契約でもめたバーノンは、シーズン終了後にサンノゼ・シャークスへトレード。シャークスは創設間もない弱小チームだったが、バーノンは30勝22敗という大活躍を見せ、チームを3年ぶりのプレーオフに導いた。

1999-2000シーズン途中にフロリダ・パンサーズへトレード。パンサーズでも18勝13敗という手堅い活躍でプレーオフに進出。オフにエキスパンションドラフトで創設されたばかりのミネソタ・ワイルドに指名されたものの、すぐに古巣のフレームズへトレードされて出戻った。

かつては揉めたカルガリーのファンたちも、今度はバーノンを温かく迎えた。2シーズンを穏やかに過ごし、2001-2002シーズンを持って現役を引退した。フレームズで打ち立てた526試合出場、262勝、29650分出場はいずれもミカ・キプラソフに破られるまでチームレコードだった。

その業績は高く評価され、2007年には背番号”30″がラニー・マクドナルドに次ぐチーム史上2つめの永久欠番に制定された。今は不動産屋を営んでいるという。ロワに負けず一時代を築いたホッケー人生であった。

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