ジョー・ぺピトーン Joe Pepitone ~Fun City~

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Joe Pepitone(ジョー・ぺピトーン)
(1940-)
Baseballer
Position:First Baseman
Threw/Batted:L/L
Height:188cm Weight:83kg

Relatives:
Stats

 稀代のダメ外人と名高いペピトーンだが、彼がそうなるにはそれなりのバックボーンがあるというのは見逃されがちだ。

 ブルックリンの貧民街に生まれたペピトーンの幼少期は悲惨なもので、生まれてすぐに伯母夫婦に預けられ、その後親元に戻ると今度は父親から激しい虐待を受けて育った。

 9歳ごろに叔父に野球の才能を見込まれてコーチを受けるが、その指導たるや殴る蹴るが先に来る凄まじいもので、スカウトがその残酷ぶりに停めに入る程であったという。

 やがてペピトーンは非行に走り始め、叔父を灰皿で殴りつけて半殺しにしたのを機に喧嘩三昧の日々を送るようになり、ハイスクールではクラスメイトに撃たれて瀕死の重傷を負っている。

 それでもペピトーンの野球センスは抜群で、18歳で地元のニューヨーク・ヤンキースと契約。めきめきと頭角を現していくが、頭を押さえつける人間のいなくなったペピトーンの素行不良は手に負えなくなっていった。

 当時まだ球界では御法度だった挑発がトレードマークのこの暴れ者は1962年にメジャー昇格。2万5千ドルの契約金を全部使ってボートと犬とフォードサンダーバードを買い込み、シャークスキンのスーツでキャンプに現れて世間の度肝を抜いた。

 ムーキー・スコーロンの控えとしてメジャーデビューし、女遊びが過ぎてマイナーに落とされるなど新人王級のトラブルメーカーぶりの一方で確かな印象を越し、出場機会はなかったもののワールドシリーズを制覇して一つ目のチャンピオンリングを獲得。

 オフにスコーロンはロサンゼルス・ドジャースに放出され、ペピトーンはファーストのレギュラーに定着。打率.271、27HR、89打点の大活躍でオールスターに初選出。

 以来、攻守に印象深く、乱闘となれば長髪をなびかせて先頭切って飛び出すこの地元生まれのお祭り男はミッキー・マントルと並ぶヤンキースの人気選手となった。

 あるスポーツライターは「Fun City」、つまりニューヨーカー好みとペピトーンを評した。打って守れるやんちゃ者。ニューヨーカーはそういう男が好きなのだ。

 このシーズンもワールドシリーズに進出。しかしドジャースを迎え討って3敗を喫しての第4戦、フィールド外での無茶苦茶と裏腹に守備の堅実だったペピトーンは歴史に残るミスをやらかしてしまう。

 同点の7回、後に日本でプレーする二塁手クリート・ボイヤーの送球を取り損なう痛恨のエラーを喫し、その間に三塁まで進んだジム・ギリアムはこれまた日本に来るウィリー・デービスの犠牲フライで生還。そのままヤンキースは屈辱のスイープを喫した。

 雪辱をと思ったのかは定かではないが、ペピトーンは翌シーズンも活躍を見せて二年連続のオールスターに進出。今度はカージナルスを相手にワールドシリーズを戦い、シリーズは落としたものの第6戦で勝ち越しの満塁ホームランを打っている。

 翌シーズンは打撃成績は落としたものの守備でアピールし、3年連続のオールスターに加えてゴールドグラブ賞にも選出。こちらも都合3回選出されている。

 以後もヤンキースの看板選手として暴れまくったが、この頃から大リーグ史上初めてヘアドライヤーをロッカーに持ち込んだこの男に見えない敵が襲い来る。ハゲ始めたのだ。

 仕方ないのでカツラを着けた。普段用と試合用の2枚を持ち、手入れの道具の入ったカバンを常に持ち歩いたという。ジム・ブートンが暴露本に書いたところによると、国歌斉唱で帽子を取る時に一緒に取れてしまった事もあるというから、カツラの性能も当時はたかが知れていたのだろう。

 素行不良は髪がどうなろうと相変わらずで、ついにヤンキースも手に負えなくなり、3度目のゴールドグラブ賞を受賞した1969年シーズン終了後にカート・ブレファリーとトレードでヒューストン・アストロズに放出された。

 アストロズはヤンキースとは比べ物にならないほど規律にうるさく、ペピトーンは全く馴染む事が出来ずチームと対立。最後には現場放棄をしてニューヨークへ帰ってしまい、無期限の出場停止を食らいウェーバーになった。

 これを大喜びで拾ったのがシカゴ・カブスで、やっぱり日本に来る(はずだった)レオ・ドローチャー監督から目をかけられ、期待通りアーニー・バンクスから一塁を奪ってレギュラーに定着。

 しかし、この頃から精神安定剤に溺れるようになり、成績は急降下。ドローチャーの辞任もあって後ろ盾を失い、まだ新人だったアンドレ・ソーントンと交換でアトランタ・ブレーブスに移籍。しかし3試合しか持たず、ペピトーンは行き場を失った。

 そこに目を付けたのがヤクルト・アトムスであった。大物の来日に日本球界は期待を寄せたが、もうペピトーンは救いようがない状態であった。

 大洋ホエールズに迎えられた元同僚のボイヤーがフィールド内外でメジャーの貫録を見せる一方、ペピトーンは試合をサボってディスコで踊り狂うばかりで、最後は無断帰国。

 二年契約だったので残留したが、キャンプインしようとせず、球団が催促するとなんと犬の空輸代を要求。ついにはコミッショナーが動いて契約解除となり、史上最悪の外国人選手の筆頭として歴史に名を残してペピトーンは姿を消した。

 日本球界には外国人選手は移籍の運動が起こるに至り、事を重く見たドジャースのウォルター・オマリーオーナーは代わりに真面目で見込みのある選手をヤクルトに送り込んだ。これがチャーリー・マニエルである。マニエルは監督としてアメリカでも活躍したので、世の中は何が幸いするか分からない。

 その後ペピトーンはマイナーでメジャー復帰を待ったが、もはやペピトーンを拾うチームはなく、ペピトーンは引退を余儀なくされた。

 その後は自伝やヌードグラビアを発表して物議を呼ぶ一方、麻薬や交通違反で事件ランをにぎわせ続けるありがちな転落人生を歩んだ。

 80年代初頭にアメリカでソフトボールがブームになり、多くの元アスリートが選手として駆り出された。この流れに乗ってペピトーンは現役復帰し、活躍はしたが麻薬に溺れてこれも長続きせず、ペピトーン贔屓のスタインブレナーの肝煎りでコーチを務めた事もあったがこれもやはり続かなかった。

 スタインブレナーの後押しでその後はヤンキースのフロントに拾われ、1998年と1999年にはチャンピオンリングを獲得。しかし、これをペピトーンは手にするや売ってしまった。

 チャンピオンリングを売るのはどんな選手も苦悩するはずなのだが、ペピトーンは平然としていたという。そこまでおかしくなっていたとも言える。

 しかし、近年になって精神科にかかり、ペピトーンはようやく更生の道を歩み始めた。酒もドラッグもきっぱりやめ、前妻ともよりを戻し、意外にも穏やかに晩年を過ごしているという。

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