ケン・ノートン・ジュニア Ken Norton Jr. ~The Champion~

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Ken Norton Jr. (ケン・ノートン・ジュニア)
(1966-)
American Footballer
Position:Line Backer
Collage: UCLA
Height:188cm Weight:115kg

Stats

1968年、ある男が妻に逃げられた。男は元海兵隊員のボクサーで、アマチュアでは相当に鳴らした猛者だったが、所詮駆け出しの身で稼ぎが悪く、ついでに女癖が悪かった。妻が愛想を尽かすのは無理からぬ話だろう。

海兵隊時代に授かった2歳の息子が男の元に残った。男は息子を養うために必死でボクシングに打ち込み、プロ入り以来16連勝。1敗を挟んで更に13連勝。研究熱心で業界で知られるようになり、徴兵拒否での服役を経て世界王者への返り咲きを目指すボクシングの神様、モハメド・アリとの対戦という千載一遇のチャンスを得た。

アリとの対戦に至ってもまだ男は貧乏で、息子を満足に養うことができなかった。貧乏から抜け出し、息子に良い暮らしをさせたい一心で男はアリを研究し尽くして勝負に臨み、アリの顎を叩き割って見事に勝利を飾った。その男、ケン・ノートンは後に世界王者となる。

だがノートンの栄光は長く続かず、要所要所で黒星を重ね、ボクシング史上唯一のタイトルマッチで勝利したことのない世界王者という奇妙な肩書きとともにリングを去って行った。引退後には解説者の職を得たが、交通事故の後遺症でまともにしゃべれなくなり、その仕事も失った。

ノートンの人生がよくある転落劇で終わらなかったのは、命懸けで育てた息子、ケン・ノートン・ジュニアが居たからだ。ジュニアはフットボールに才能を発揮してUCLAに進み、LBとしてチームのカンファレンス制覇に大きく貢献。1988年にドラフト2巡目でダラス・カウボーイズに指名された。

1年目は故障者リストに入って満足にプレーできなかったが、2年目の1989年にジェシー・ソロモンとの併用でRLBのスターターに定着。第1、第3クォーターをジュニアが、第2、第4クォーターをソロモンが担当するという体制で87タックル、2.5サックを記録して売り出した。

翌シーズンはソロモンがタンパベイ・バッカニアーズに放出されてポジションを完全に確保するも、シーズン後半に膝を壊してし、手術をする羽目になった。

手術は上手く行き、1991年シーズンはLLBとしてフル先発。シーズン終盤にMLBにコンバートされ、以後ジュニアはチーム事情に応じてインサイドとアウトサイドを行き来することになる。

1992年シーズンはRLBに戻り、チームトップの120タックルを記録。NFL最強を誇ったカウボーイズディフェンスの中心選手としてチーム久々のスーパーボウル制覇に大きく貢献した。

大学時代の思い出の地、ローズボウルで行われたスーパーボウルではバッファロー・ビルズと対戦。ジム・ケリーを”ノックアウト”して退場に追い込み、第4クォーターではFRTDを記録。攻守に大活躍して大喜びのジュニアはエンドゾーンでシャドーボクシングをして、ゴールポストを殴りつけた。以後このパフォーマンスはジュニアの代名詞となった。

翌シーズンは上腕二頭筋を故障したものの、MLBに移ってフル出場。またもチームトップの159タックルを記録してチームの連覇に大きく貢献。プロボウルに初選出された。

だが、翌シーズンからサラリーキャップが導入され、スター軍団だけに高給取りの多いカウボーイズにリストラの嵐が吹き荒れた。ディフェンスの中心選手だったジュニアも契約の延長を断られ、あろうことかカウボーイズの宿敵サンフランシスコ・49ersに移籍して物議を呼んだ。

49ersではRLBになったのだが、開幕戦のマンデーナイトフットボール、ロサンゼルス・レイダーズ戦で事件が起きた。海軍兵学校で2度のオールアメリカンに選ばれ、5年間の軍務についたレイダーズに似合わぬ律義者、RBナポレオン・マッカラムの選手生命を不幸にも絶ってしまったのだ。

ジュニアのタックルを食らってマッカラムの膝があらぬ方向に曲がる痛々しい映像が全米のリビングに流れた。ジュニアは海兵隊員の息子とあって、元々不仲な海軍と海兵隊がますます不仲になったという。

とはいえジュニアはめげず頑張り、チームをまたいでスーパーボウル3連覇の快挙を達成。選手としての3連覇は今のところジュニアだけしか達成していない。

翌シーズンがキャリアハイで、96タックルながら3INT、リーグトップの2INTTDをマーク。元気にゴールポストを殴りつけ、プロボウルに加えてオールプロにも選出された。

その後も49ersディフェンスの中心として活躍し、1997年もプロボウルに選出。2000年を持って現役を引退した。

ジュニアは父親と違って引退後が凄かった。解説者を務める傍らでハイスクールでコーチの修行を始め、2004年に49ers時代にディフェンスコーディネーターだったピート・キャロルHCに招聘されてUSCのLBコーチに就任すると、ロファ・タツプ、ブライアン・クーシング、クレイ・マッコーズ3世らプロボウル級のLBを続々と育てる手腕を見せた。

これが認められて2009年にはHC補佐も兼任。シーズン終了後にキャロルのHC就任につき従う形でシアトル・シーホークスのLBコーチに就任。教え子のタツプと再会し、ジュニアの指導の下シーホークスLB陣はぐんと強化され、2014年には4つ目のスーパーボウルリングを獲得。

翌シーズンからは因縁あるレイダーズのディフェンスコーディネーターに就任するとまたしても辣腕をふるい、2016年シーズンにはLBハリル・マックが最優秀守備選手のタイトルを獲得。

しかし、翌シーズンはパスディフェンスが脆くなり、シーズン途中で解任されたが、2018年1月に49ersのHC補佐に就任。しかしわずか1週間後にシーホークスとキャロルにディフェンスコーディネーターとして呼び戻され、そのまま現在に至るまで務めている。

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